「捨て子」たちの民俗学

「捨て子」たちと書かれるとちょっとピンとこない。

しかしラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と柳田國男の2人の民族学者から見た、民俗学者共通の来歴と常人には考えられない衝動を手がかりとして著者の大塚英志氏が民俗学の根本と思考について考察している。

民俗学は私自身あまりよくわからないのでここでは気になったところだけ述べようと思う。
著者が言うには民俗学は人相学の雛型となったという。ちなみにハーンも柳田も共通して挙げられているという。民俗学の中の封を開けてみると確かにそうかもしれない。

民俗学は国家においてどのような生活をなされてきたのかという学問であるので、その生活の中でいかにして人格、人相を気付いて行ったかという一つの材料となる。そのうえでは人相学というのは民俗学によって生まれたものであるという考えもよくわかる。

ハーンや柳田は日本の民俗学について最も追及をなした学者である。その中でどのような考察をなされてきたかというのも興味深い。そのなかでハーンが「君が代」と民俗についての考察を行っている。ハーンは「君が代」が「民族感情」を喚起しているという言葉に興味がわいた。

しかしよく考えてみると、国家というのは国に対する愛国心の現れ、畏敬の念を感じるものであると同時に民族感情が入ることはごく当たり前のことであると私は思う。アメリカやフランス・イギリスなどの国家には革命や独立によって築き上げられたアイデンティティがここにあるのではないだろうか。

最後のほうにようやく表題の捨て子が登場する。これまでの民俗学を見てみると、民俗学というのは生まれながら、もしくは成長とともに芽生える国それぞれのアイデンティティであることがわかった。そこでは親から民族性を受け取るということも後世の役割であり、それを身につけることによって無意識にその国家のしきたりや民族性というのが如実に表れる。しかし、捨て子になり親への愛情かなかったらどうするのか、というのを考察している。

柳田によれば子捨て(捨て子)を言うのは「社会への養子」と結論付ける。これについては私自身「なるほど」としか言いようがない。しかし、子を捨てることにより、捨て子は親への愛情を受けることができない。その代わり別の家族での社会、もしくは世間を学ぶということになるのでそこで肉親から学ぶものとはまた違った民族性について学ぶことができる。しかし、いいところも悪いところも表裏一体であるのでどちらがいいとは私でも言いきれない。

難しい本ではあるので、部分的なところで私なりにまとめてみたが、民俗学について少し勉強になったし、これからもこういう類の本とかかわっていきたいという気持ちにもなれた。