愛国者は信用できるか

右翼団体「一水会」の顧問であり、右翼の大家ともいわれている鈴木邦男氏。その方が「愛国社は信用できるか」というものだから驚きである。もっと驚きだったのは本書の帯紙に書いてある「三島由紀夫は言った「愛国心は嫌いだ」」ということである。

ハッキリ言って開いた口が塞がらないような気持ちになった。三島由紀夫と言えば1970年に三島事件を起こし戦後民主主義と日本国憲法を批判し、独自の天皇観を檄文に記して割腹自殺をした人である。本来は作家であるため「金閣寺」や「宴のあと」で有名である。

さて右翼でよく言われる「愛国者」や「自分には愛国心がある」と言う人をどうして信用できないのか本書を見てみる。

第1章は三島由紀夫の「愛国心は嫌いだ」の発言についてである。この章を見るに三島は愛国心の「愛」という字がきらいであり自分は「愛国心」よりも「恋国心」を持っているということである。よく「恋」は下心、「愛」は真心ということを聞くが(実際漢字を見てだけのことかもしれない)、それ以外にも意味があったということには興味深かった。

というのは「愛」というのは宗教的な概念(キリスト教)が入り混じっていることや、一方的なものであるので「恋」のほうがいいのではないのか(ちなみに「愛」は双方向的な意味合いがあるという)というのが三島の意見である。言われてみれば確かにその通りであると私も思う。三島の「愛国心」は嫌いであるというのも窺え、共感できる。それを考えるといわずとも「愛国心」というのは萌芽していくであろう。

第2章では「愛国心」とはだれのものなのかについて考察している。これについて読む前の私見であるが国それぞれにあるものだと思った。しかし誰のものかというよりも「誰のためか」という定義に終始していた。最初に西南戦争が取り上げたときに愛郷心として取り上げている。さらにこの章では「玄洋社」について取り上げたところも印象的であった。玄洋社の詳細については「広田弘毅」で詳しく述べさせていただく。

第3章では「愛国と憂国」の違いについて取り上げている。この章では哲学的な見解もあるが簡単にまとめると愛国=現状維持、それに対して憂国=変革であるという。これについても膝をたたくほどであった。しかし辞書的な観点で言ったらまさにその通りである。「愛」というのは今の状態を愛し現状維持を望み、「憂」は今の状態を嫌いこれではいけないという気持ちが強い。どちらも保守の漢字はあるもののこれだけ違いがある。

第4章では「愛国者の条件」である。ここでは著者自身の愛国者としての歴史がつづられている。実際これについては批評できるものではなかった。著者自身の人生についてはケチをつける気は到底ない。

第5章は「天皇制と愛国心」についてである。ここでは天皇の畏敬の情と御真影について書かれていた。天皇の御真影については歴史の教科書に書かれていたものを見たくらいなので、本書を見るまで知らなかったものもあったのでここも興味深かった。

第6章は「謙遜の日本史」である。ここでは「ベルツの日記」での日本人の謙遜を中心に書かれている。謙遜よりももっと印象的だったのは日本人は昔から自虐的であったということである。とは言っても日本の上層部の人々が自虐的であるとベルツは日記を通じていっている。実際ここもほかの右翼と相対する内容かもしれない。こういうことから自虐史観を持つべきだという意見も出てくるということも相容れないかもしれないが窺える。自虐史観を主張する論客はそういった性格が如実に出ているのではないだろうか。

第7〜9章は天皇論、そしてそれに関する皇位継承問題についてである。私見であるが女帝は賛成であるが、「女系」は大反対である。理由は当然、血筋の混滅の危険性が強いのである。第7章では小林多喜二について擁護論があるのはこれには強い印象があった。

第10章では愛国心の必要性について書かれているが、最後のところで書かれているがそもそも愛国心というのは自然に心の中にあるので、必要性については私は愚問であると思う。あとがきには「反日書」や「売国本」と呼ばれたいというくだりはあるが、本書を読むに私はそう思わない。むしろ愛国心についてとことん突き詰められた良書であるといえる。