愛国の作法

「愛国心とは何なのか」

一昨年の教育基本法の改正によって「愛国心教育」が盛り込まれたが、具体的に「愛国心」というとナショナリズム(全体主義)にもなれば「愛郷心(郷土愛)」なのか定義に揺れる。

本書はそういった愛国心を様々な観点から掘り下げられている。まず第1章においてなぜ現在「愛国」なのかと定義しているが、私がここで気になったのは「「愛」することはどんなことか」である。

著者の意見の前に鈴木邦男氏の本において三島由紀夫の例がある。三島由紀夫は愛国心が強いというイメージはあるが本人は「愛国心」という言葉が嫌いである。そもそも「愛」というのは双方の感情によって成り立つものである。そこで三島は国に「恋」する。つまり「恋」は一方的でも成り立つので「恋国心」があるとなった。

そう考えると著者の疑問点はよくわかる。様々な人から「愛国心がある」というのは少しずれていて本当であれば「恋国心」ということに置き換えてみればつじつまが合うのではないかというのが著者に対する私なりの解釈である。

第2章では国家とは何かについて論じられているが短いうえ少し読みにくい部分があるので佐藤優氏の「国家論」を読んだ上で本書の部分を呼んだほうがいいと私は思う。しかし最終節の「国家と国家」では日韓中間のことについて書かれていたが、最後の部分の

「これほどまでに過去の歴史と記憶によって差湯される時代はなかったのでは…」(p.85より)

は、確かに現在左右されている。これは日本の隣国の摩擦に屈しすぎたためではなかろうか。とりわけそれが顕著に表れたのは現在衆議院議長の河野洋平が自民党総裁だった時に「河野談話」を出した前後からである。その後には元首相の村山富市による「村山談話」もあることから歴史認識問題を泥沼化させたことは忘れてはならない。

第4章ではいよいよ表題の「愛国の作法」である。いくつかの文献において愛国心を語っているが、そもそも愛国心を英訳すると「パトリオティズム(=祖国愛)」であり「ナショナリズム」ではない。しかし悲しきかなマスコミなど世論は「愛国心=ナショナリズム」と混同されることが多い。

本書ではナショナリズムの語源についても解説されているところが特徴的である。ナショナリズムとは「故郷離脱」から生まれたという。つまり離れた、もしくは失われた故郷に回帰するためのものであるという。しかし途中から靖国批判にスライドしていったところが残念である。

いくつかの本でも言ったが愛国心の定義は祖国愛に基づかれている。しかし祖国愛の定義とは何か、何をなして愛国心と定義するのかというのはあいまいである。これに関してはまだまだ定義づけの結論は難しいと言っていい。