ブログ論壇の誕生

ここ最近はそれほど多くは話題となっていないもののブログを通じて時事的なことについて活発な主張や議論が多い。また私みたいなブログを通じて書評を行っているところもある。本書はそういった「ブログ論壇」についてどのような影響を及ぼしているのかというところについて書かれている。

最初はブログ論壇についてあるものと似ているところを突いている。十八世紀のイギリスのコーヒーハウスやフランスのカフェ、サロンでの討論から論じている。私はそれに似ていると思うが、今のブログ論壇とはっきり違うところがエリートに限られていたという。ブログはそれがなくてもだれでも論じることが可能である。これについては少し興味深いので、関連するところと相違なところの詳細も見てみたいところである。

第1部は「ブログ論壇はマスコミを揺さぶる」として、第1章は「毎日新聞低俗記事事件」、第2章は「あらたにす」と言った新聞記事が最初に入る。まず第1章の「毎日新聞低俗記事事件」は新聞やニュースではそれほど大きく取り上げられていなかったがブログ界では議論の的となった。マス・メディアとインターネットによる対立が顕著に表れたと言う。事実マス・メディアとインターネットのいがみ合いというのは今に始まったことではない。

マス・メディアはインターネットのことについての批判が殺到する、それとは逆にインターネットはメディアへの非難というのが後を絶たない。ネットの世界で様々なことを論じている私だが、僭越ながら主張するが私はどっちもどっちであると思う。マス・メディアは当然インターネットの世界を悪と捉える。

さらに悪いことに様々な軋轢や感傷により事実が歪曲されて報道してしまうという特徴がある。一方インターネットは活発に議論を行えるところや軋轢や干渉にはそれほど影響は受けない。しかしその反面、議論が感情的になりやすく反対意見を誹謗中傷での排除が出てくることもまた事実である。

それぞれのいいところ・悪いところを見ていくとどっちもどっちではと私は思ってしまう。新聞はそれぞれの独自性によってどのようにして報道するのかというのが面白い。しかしそういうものもある談合まがいによって消されているのも悲しきかなある。それが「あらたにす」である。あるコラムニストでは利権談合の象徴とまで言っている。私は半分その通りと言えようが、しかし金に関することは一寸疑わしい気がする。

というのは「あらたにす」というのは「読み比べ」という印象が強いが、実際はその新聞の均一性ばかりが目立ってしまった、露呈しまったような気がしてならない。第3章は「ウィキペディア」についてだが、知識の共有化として画期的なメディアであるが、これについて昨年こういうことが起こった。

官公庁やNHKがウィキペディアの記事を書きこんでいた(「改竄した」というべきか)ということが発覚したという。ウィキペディアについて批判する論者もいるが、実際これについては私は本当にウィキペディアを見たうえで論じているのかと疑わしくなる。しかし本書ではこういうセリフが引用されている。

「正義の反対は悪ではなく、また別の正義」(P,54より)

後に語るが、光市母子殺害事件のことにも通底して言えることではないだろうか。

第2部は「ブログ論壇は政治を動かす」として第4章「チベット問題で激突するウヨとサヨ」、第5章は「「小沢の走狗」となったニコニコ動画」、第6章は「志位和夫の国会質問」、第7章は「安倍の窮地に暗躍した広告ロボット」で構成されている。これにまつわることで本書で書かれていなかったが、アメリカ大統領選の民主党予備選挙にてオバマとヒラリーの戦いについてYouTubeが大いに使われたという。

日本ではこういうことは公職選挙法によりできないがある程度インターネットを使うことができるようにはなったがまだ不十分としか言えない。しかし非公認や勝手モノとしてであればすでに選挙や政治において影響を及ぼしていることも事実である。小沢一郎がニコニコ動画にUPしたことでコメントが炎上した。

ニコニコ動画についてはひそかにではあるが民主党の石井一参議院議員が昨年10月に公明党のP献金についての質問の動画が多数UPされて話題となった。真相のほどは不明であるが公明党の実態が露呈したとして多くの意見が寄せられたことも窺える。そしてもうひとつがこれは私も知らなかったことだが今年の2月8日おける日本共産党委員長の志位和夫氏が格差問題1点に絞って首相を追及したところが話題となったという。

そう考えるとこれも今年共産党の党員となった人が1万人に達した一因ではないだろうか。そして第7章ではもしかして「アサヒる」や「アベする」と言ったことなのかなと思ったのだがそれとは逆に、自民党がインターネット戦略を行っていたところであった。ちなみに前者は朝日新聞や安倍首相に対するネガティブキャンペーンであったということは捨てきれない。最近アフィリエイトを利用して金もうけに走っている人もいる。

当然成功例として「月何百万」や「年数千万」稼いだという本やサイトが所狭しとある。しかしその内容は私は見たことがないのだが、それに関してのコメントや販売をひきつけるものが明でも暗でも書かれているようなイメージがある。でもそれでいいのかという私も疑い深くなってしまう。そう批判する私もアフィリエイトに加入しているが、あくまで書籍を紹介しながら主張しているだけであっても受けそのものが目的ではない。それでたまたま儲けたというならばこれ以上の話はないが。

第3部は「ブログ論壇は格差社会に苦悩する」と題して、第8章「辛抱を説く段階への猛反発」、第9章「トリアージ」、第10章「承認という問題」、第11章「ケータイが生み出す新たなネット論壇世界」で構成されている。ブログ論壇の中心にいる人たちの世代はちょうど格差問題の惨禍にいる人たち、いわゆる「ロストジェネレーション世代」である。当然格差問題に関してブログを通じて窮状を訴えるというものが少なくない。

私も貧困にあえいでいないのだがこういったワーキングプアやプレカリアートの現状を知ることとなったきっかけでそれについて訴えている。現にいくつかの文献でそうしている。しかし団塊の世代はそういったことを迎合していない、むしろ敵視している風潮にある。例えば日経ビジネスオンラインは私もよく見るが、本書でも書かれていたように大学教授が格差社会に対して「若者は我慢が足りない」という「俗流論」で切って捨てたが、それに関して2ちゃんねるで炎上したというエピソードがあった。

日経ビジネスオンラインはこういった俗流論を切って捨てる風潮にある。例えば「中 国動漫新人類」に関しては私は好意的に読んでいたのだが、毎号のコメント欄には俗流論の如く切って捨てるようなコメントがたくさんあったことは記憶に残っている。インターネット外もさることながら、インターネット上でもこういった世代間の対立というのもはっきりと出ている。

そしてもうひとつ秋葉原連続殺人事件について「自分は承認されていない」ということについて書かれていたが、これは11章のことについてもよく似ていると私は思う。インターネットという会話を介さずに活字でのメディアであるがそこの中でもコミュニケーションというのは存在する。これとちょっと関係するのでマザー・テレサの名言がある。

「この世で最大の不幸は戦争や貧困などではない。寧ろそれによって見放され、“自分は誰からも必要とされていない”と感じる事。」

ブログにてつながりを過剰に意識したがることや、秋葉原の連続殺人事件に関しての供述に関してこの言葉が重くのしかかるのではないのだろうか。リアルだけではなくこういったインターネットの世界でも言えると私は思う。

第4部は「ブログ論壇はどこへ向かうのか」と題して、第12章「『JJ』モデルブログ」、第13章「光市「1.5人」発言」、第14章「青少年ネット規制法」、第15章「「ブログ限界論」を超えて」で構成されている。さて光市母子殺害事件についてであるが本書では「1.5人発言」について取り上げられたが、第2部で「チベット問題に対する見解」を取り上げられたように光市母子殺害事件についても見解が割れている。

とりわけ橋下弁護士(現大阪府知事)による懲戒請求煽動問題がその最たる例であった。私もこれについていくつか主張してきたが炎上したこともあった。その中での反対意見も賛同意見もあるのだが、事実懲戒請求についてこれほど注目されたことはなく、弁護士の行動によって一般国民が告発のために使う切り札を紹介してくれたという側面のほうが大きいように思えた。こういうことによりネットの世界というのは議論の場という意義が非常に大きくなった要因の一つではなかろうかとも思う。

ブログをはじめインターネットというのはメディアを凌駕する勢いで伸びていることは事実である。しかし公序良俗の側面から見直すべきところはたくさんあるというのは否めない。とはいえ一大メディアとして本日行われる自民党総裁選や近いうちに行われるであろう衆議院総選挙に何らかの影響を及ぼすということは事実として言える。そして世代間の対立、メディア間の対立というのが浮き彫りとなったのだが、それを否定するばかりでなくこれからどうすればいいのかというところから再考するのも一つの手段ではなかろうか。ネットというのはまだまだ可能性を秘めている。

巻末には著者注目のブロガーリストが載せられている。ここに載せられているということはやはりこれらのブログには魅力というのがあるのではないのかと思う。