生老病死の哲学

人には「生」「老」「病」「死」という4つの宿命がある。その4つにどのような哲学が込められているのか本書はそのことについて書かれている。

「生」
仏教とソクラテス、そしてローマの哲人セネカの言葉から始まる。ここでは後者の2つについて挙げる(両方ともp.3より)。

「真正に哲学する人々は死ぬことを練習している」(ソクラテス)

「哲学者の全生涯は死の思惟である」(セネカ)

宗教も哲学も最終的には「私」とは何なのかという果てしなき課題の中で思索している。私自身も哲学や宗教書を読む際、自らの「死」について考えている。私にはこういう格言がある。

「「死」を考えてはじめて「生」がある」
人にとって「死」とは何なのか。どのような「死」がいいのかというのは永遠の課題と言える(実際私自身「殉職」に憧れるのだがそれをやってしまうと社会が許してくれないと思う)。そしてもうひとつ(p.6より)、

「生は苦なり」

ちなみにここでの「苦」は出生までのことについて書かれているだけで、人生における「生」について書かれていなかったところが残念であった。しかし人生における「生」は「苦」もあれば「楽」もある。そのことを考えれば、人生において「生は苦なり」となるのにはちょっと無理があるのかもしれない。

「老」
人間において「老」は避けようがない宿命である。しかし追い方によっては後の人生に華を持つこともできれば、そのままただずっと死ぬまで生きているだけの人間となってしまう。本書では老いには社会的に二面性があるという。
「敬老」と「棄老」である。
これはなかなか興味深い。肉体と精神に関しての老衰はそれぞれ意見が分かれるが、しかし追い方によっては肉体・精神ともに老いる人もいれば、肉体は衰えていても精神的に老いない(逆に若返る)人もいる。要は行き方次第である。昨今は高齢社会と言われているが、年の取り方も勉強したいものである。ただ20代である私はもう少し遅くていいのかなと甘く考えてしまうが。

「病」
人が病に冒される時は必ずやってくる。その時の心情というのは私自身、病に罹り病院に入院した経験はないが、その時は人生について何か悟りが開けるかもしれないと考える。その中で「死」とは何なのか、「生」とは何なのかというのが、とりわけ「生」と「死」の狭間で如実に表れるのではないだろうか。

「死」
宗教における「死」というのはキリスト教と仏教で違う。
キリスト教は死んだあと「最後の審判」によって天国へ行くのか地獄へ行くのかが分かれるという。

仏教は厳密にはあまりよくわからないが「輪廻転生」によって「生」と「死」が繰り返し行われるという。

神道は死生観はそれほど伝えられていないが、地続きによって地上に残るものもいれば天上へ行くと考えられるが、新党はそれほど勉強していないので本当のところはあまりよくわからない。

死後の世界は宗教によって千差万別あり、本当に死後の世界がるのかと言うのは死んでからでないと分からない、のでここでは割愛させていただく。本書での死に方については「生」の所で書いたためここも割愛。

本書を読んで思ったのがこの高齢社会において誰もが永い「生」を望んでいるのかどうかが分からないのである。ここ最近の健康志向や医療の高度化により寿命は確実に長くなっているのは事実である。しかし本当の所これでいいのか、長生きすればそれでいいのかとも思ってしまう。イギリスで18世紀の文学作品においてジョナサン・スウィフトの「カリヴァー旅行記」の第3編において「ストラルドブラグ」という不死の人間のことを思い出す。「ストラルドブラグ」は不死ではあるが不老ではないため当然老衰にあい、法令により80歳になったら死んだとみなされ厄介者にされる。

当然病気による死はまずないため「生」による苦しみがいつまでも続くとも言われている。そう考えると生き永らえることは果たして善いことだろうかという疑いを持つ。私自身は必ずしも善いことではないと主張する。人間には最適な人生があり、そしてそれに向かうために道を切り拓いて向かっていく動物であると私は思う。その目標や思いや夢がなくただ生きることは私は無駄としか言いようがない。それは空っぽの人生を「ただ生きる」という苦痛でしかないと私は思う。

「生」と「死」は隣り合わせである。しかしただ生きるのではなく、私はどうせ死ぬのであれば輝きを放ちながら死にたい。私の理想の死に方が「殉職」であるのもそこからきている。