目覚めよ仏教!―ダライ・ラマとの対話

今年の春ごろにチベット動乱があったのだが、この時と北京オリンピックの最中にダライ・ラマ猊下が会見される回数が増えてきた。チベット仏教にとっても今非常に深刻な状況に陥っており、チベット仏教が根絶されるのではないかという声さえも聞こえ始めた。とはいえ仏教の中でも最も過酷な修行を行い、悟りを開いているチベット仏教。日本ではそういった光景はあまり想像できない。しいて言うと昨年「堂入り」という宗派は分からないが日本仏教の修行の中で最も過酷な試練に挑み成功した人がいた。ちなみに「堂入り」とは山奥の小屋にて10日間飲まず食わず睡眠せずにひたすらお経を唱え続けるというもの(そこまでしか知らなかった)。とはいえこれを挑むほど熱心に仏教を行っているのだろうかという疑いさえ見えてくる。そして日本人は宗教間がないという人もいる。

それを含めて本書では著者とダライ・ラマ十四世猊下との対談において何をおっしゃられたのか、日本仏教の起爆剤とは、そして日本の問題とはというところまでに及んだ。

まずは経済。日本はGDP世界第2位の国であり、日経平均が一時7,000円台に落ちるほどの恐慌であっても、「格差問題」があっても金や物に恵まれている。戦後の高度経済成長の賜物であろう。しかしそれとは反比例して心の豊かさが急激に下がってきたこともある。むしろ日本人はモノの豊かさを大小に心の豊かさを置き去りにした感じさえもする。また宗教が必要なくてもモノがある、お金があるという時代である。しかし思いやりがなくなったと言われるとそうかもしれない。ここでダライ・ラマ猊下の御言葉を一つ、

「思いやりが大切であるということを強調するのではなく、お金をもうけることが大切なのだ、というような間違った方向付けをしてしまっているのです。」(p.40より)

「たくさんのお金がありさえすれば、思いやりのある優しい友人を持つことも、慈悲深い社会なども必要ではない、というような誤った認識をもってしまうわけです」(p.40より)

上記のようなことを教育の場では教えていなかったとしても社会がそれを語らずも教えてしまったという感じがしてならない。モノの豊かさが先行してしまい人間としての心が置き去りにされてしまっている。これではいじめも妬み・恨みも絶えないようなギスギスとした社会ができてしまう。さらには24時間のマクドナルドやスーパーまでできるためいつでもモノが手に入ることができる。つまり「足る」をわからない世の中になってしまった。豊かになったことが元凶であると言えば事足りるが果たしてそうだろうかという疑問さえある。ただモノの豊かさが心の豊かさに先行しているというのは事実である。そしてその経済成長は西洋的な手法を取り入れて成長できたのだと猊下はおっしゃっていたが、確かにその通りかもしれない。当然その手法というのは合理的・効率的要素が強く、当然利益優先等に絡んでくることだが、それに偏重するあまり日本人としての大事なことを失ったのかもしれない(例えば侠気もそのひとつである)。今度はこれを取り戻す番に来ていると私は思う。

続いては章またぎとなるが宗教と若者への教育である。今の教育には道徳という教科はあるが、学校において愛や思いやりを身につける必要があるのにもかかわらず知性と知識ばかりに目がとらわれていき真の教育は身についていないのかということと、日本人の宗教心の低下を嘆いておられたことである。まずは前者。これについて教育とは何なのかという問題にかかわってくる。今日の教育問題は専ら学力低下による問題ばかりであるが、実際もっと掘り下げてみると体罰指導やモンスターペアレントというようなことが起こり、愛情のこもった教育が施せなくなってしまっているのも事実である。今本当に深刻な教育問題は猊下が語っていたような内容であると私は思う。学力というのは競争によって、そして自ら学びたいという意識づけにすぎない。もっと根底にあるのは学力ではなく、人徳にあるのではなかろうか。人として、日本人としての素養を得るために国語をやる社会をやるし、その中で先生は子供たちに愛情を注ぐ。それによることの体罰や怒鳴り・諭すことは子供を育てるうえでも重要なものである。ある評論家は子供は叱られるのが商売であると言っていたが大体その通りである。というのはむしろ子供というのは誰かに見られて、そして大人たちの姿を見て育っている。その大人たちが子供たちを甘やかすあまりにモンスターペアレントのように無理難題を学校側に押し付けているとしか思えない。結局子供は自分の思い通りには育たない。親たちは自分の首を自分で絞めていることも忘れている。というかそれをさとしても聞く耳を持たないのが今の親の現状の一つだろう。道徳の教科化というよりもまず先生や親が態度で道徳を示さなければ本当の道徳にならないと私は確信する。私自身も親に厳しく育てられた身であるから。

そして後者の宗教である。これは宗教学の範疇にはいるため非常にわかりづらい表現になってしまうかもしれない。まず日本における宗教概念から言わなければならない。日本の宗教は神道と仏教、そしてキリスト教が主な宗教であるがそれだけではなくイスラム教やヒンドゥー教など数多くの宗教が共存している国である。その中で宗教紛争があるのではという不安はあるがそのような事件というのを一切聞かない。もしあったとしても中東諸国など海外で起こっている。ではなぜこのように日本は多宗教であってもそのような紛争が起こらないのだろうか。まず日本の宗教間の根幹である「神道」、これが多神教であること、宗教の大多数が一神教であるがそれを相容れるものがあるのだろう。そういう意味では「神道」というのはほかの宗教に寛容である。本書の話とずれているように思えるが、宗教的な影響力は猊下からの視点では減っているように思えるが、見えないところで宗教が出てくるのが実は日本である。怪談で有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は「日本は死者の国である」と言った。これに尽きると思う。日本は死んでいても地続きで生きていても神社や寺、教会に入りそこでお祈りを行い、しんだら今度は神様仏様となる。当然神道には葬式のようなことはやらないものの、その代わりその土地・国において貢献したものには「御霊」(靖国神社では「英霊」)として祀られる。つまり宗教的な概念をもたなくとも日本人の中に「カミ」の概念が染みついているためなので、宗教ということをありのまま入れなくても宗教的概念が染みついているのでそれを取り入れる必要がない。その証拠には室町時代末期にポルトガルか らキリスト教の信仰のために日本にフランシスコ・ザビエルらがやってきたが思ったよりも侵攻されなかったのはそのためである。

まだまだ書きたいことはたくさんあるのだが、これ以上書くとものすごい長さになるのでさすがにここまでにしておく。ただ簡単にまとめるとこれだけは言える。本書は仏教にまつわることは書かれているが、それ以上に戦後日本人が忘れてしまったもの(こと)がぎっしりと本書に詰まっている。それは日本人が忘れてしまった宗教心、慈悲、思いやり、侠気であろう。日本人は経済的にも飽和状態になり始めている。今度はこれに対しての希求心が強まればもっと良い国になるのではと私は思う。