東京裁判を正しく読む

今年で東京裁判での判決60周年、同時に7人のA級戦犯の死刑執行60年となる。今年は東京裁判にまつわる本が次々と出ていて、当ブログでもいくつか紹介している(今年発売のものや、過去に発売されたもの問わずに)。

本書は東京裁判全体についてであるが、著者の2人を見ると、双方ともパール判事の解釈について論文を寄稿した方ではないか(むしろ東京裁判専門の方々だから仕方がないか)。そのうちの一人牛村氏はパール判事の「日本無罪論」に関して面と向かって論争を繰り広げている。ほかの論争と比べても非常に紳士的で読みごたえもある。今後の論争に期待したいところだ。
さて、東京裁判についてであるが、いくつかの本でも書いたとおり「政治裁判」で終わった。そしてアメリカが独立前後に行われていた「私設裁判」さながらの野蛮なものとも言うべきか。

罵詈雑言は置いといて第1章では「A級戦犯28人はなぜ選ばれたのか」である。まず最初に武藤章が起訴されて驚いたという所からである。武藤は東条が陸軍大臣の時にはナンバー3の軍務局長であった(ちなみにナンバー2(陸軍次官)は木村兵太郎)。東条を中心とした取り巻きを中心に逮捕するという考えから、武藤が選ばれるというのは言うまでもない。ちなみに東条の陸軍大臣時代の3人(東条・木村・武藤)とも東京裁判で絞首刑となった。あと「キーナン(東京裁判の首席判事)の判決評価」だがキーナン首席判事は判決後に仲間と飲んだ時にこう不満を漏らした。

「なんという馬鹿げた判決か!広田(弘毅元首相)の死刑は考えられない!!どんなに刑が重くとも終身刑までではないか!!」

ちなみに本書では松井の記述がないのは私にとっては不満だった。そして広田だが「ニューヨーク・タイムズ」においてアメリカ人の教誨師や将校らから「神様みたいだった」と書かれていたという。驚きではあったが、広田自身は禅宗により悟りを開いていた。その時に仏教の教誨師である花山信勝との会話がかみ合わなかったこともあり、さらに最後の万歳において「今マンザイしてたでしょう」と言った。死ぬときでもなお平常心を保っていたことから「神様」と呼ばれたのではないかと推論できる。

第2章はこの東京裁判の舞台裏についてである。ここでは検事側、そして判事らの駆け引きがあったことは事実である。有名な例としては天皇訴追をどうするのかについて東条の供述についてウェッブ裁判長とキーナン首席判事との対立がある。さらに裁判官側でも7人による協議により死刑かそうでないかを選んだということも言われている。それに外されたのはウェッブ裁判長、パール判事、レーリンク判事、ベルナール判事、7人組の中でもフィリピンのジャラニラ判事はそれとは別に意見書も書いている。ちなみに7人全員死刑を選んだというのには本書で語弊がありレーリンクは理由は述べられていないものの佐藤賢了(陸軍中将)、嶋田繁太郎(海軍大将)、岡隆純(海軍中将)の死刑に賛成しているというが、はたして真実なのだろうかという所は定かではない。

第3章はパール判決の真実であるがこれは数多くの文献を通して論評を行っているがこれと言って目新しいものはなかった。それ以上にここの部分でおそらく小林よしのり氏と牛村・日暮両氏の論戦が予想される。突っ込みどころはどこだろうという所は私の推測では以下の通りである。

「判決の呼び名とパール判決のページの量」
「パール判決は「日本無罪論」にいきつくのか」
「少数意見書の解釈と歴史史料の読み方」

おそらく来月、再来月にはその論争が出てくるのではないだろうか。その時にはどのような展開があるのだろうか期待したいところだ。

第4章は敗戦直後の中で日本はどのようであったのかについて書かれている。とりわけA級戦犯BC級戦犯の家族は戦時中以上に執拗の如く攻撃されていたことは明白な事実である。東条英機の長男が務めていた会社で東条だからということでクビにされたり、妻が買い物に出かけたら「東条に売るものはない!」と言われたりさらに孫も「東条君のおじいさん(東条英機)は泥棒よりももっと悪いことをしました」と罵られたりとひどい扱いを受けた。実はこれらの戦犯に対して同情の意を唱えたのは何と社会党であった。とりわけ同党の堤ツルヨ衆院議員は熱心に活躍氏、このような発言もしている

「遺族は国家の補償も受けられないでいる。しかもその英霊は靖国神社の中にさえも入ってもらえない」(第16回衆院厚生委員会(1953.7.9)議事録より一部抜粋)

今の社民党であれば考えられないような発言である。今であれば「戦前の軍事国家に戻す気か」という批判が目に見えている。しかし時がたつにつれてその戦犯への視線はますます白くなり、戦犯の家族だからと言っては企業に入れない、モノを買うことができないというようなことがあり、さらに誹謗中傷が絶えず、戦前よりもはるかにつらい苦痛を浴びていることが事実である。野党、特に社民党や共産党はそう言ったところに目を向けないのか、中国や朝鮮半島の被害者ばかり目が行きそれでそう言った苦痛を浴びせ続けている遺族を暗に言論という名の凌辱しているのではないか。人権というのは海外の人権を守るよりも先に国内においてそういった被害に表れている遺族の方々の補償を求めることが先決ではないのかと問いたくなる。
第5章は21世紀になった観点からこの東京裁判をかえりみているが、丸山眞男や靖国合祀と言ったところがなぜかあなたたちのほうがというような考えさえするのは私だけであろうか。
東京裁判判決から60年になる今年だが未だにその裁判史観に束縛され、そして自虐史観に束縛されるような人が多いというのは嘆かわしい。タイムリーかどうかは分からないが航空自衛隊の空幕長が独自に研究したことを懸賞論文に投稿し、大賞を受賞したことが一つの問題となっているが、これについては後々語ることにする。それ以前に批判するよりもまずこの方の論文を読みたい。話はそれからである。