闘え、日本人―外交とは「見えない戦争」である

「戦争の反対」はなにか?

まず言えることは「戦争」の反対は「平和」ではない。もしも「戦争」の反対が「平和」であると信じ込んでいたらここで正してほしい。

「戦争」の反対とは一体何か?当然戦争を行わないことである。戦争を行わないということは当然戦争回避するために交渉を行う。その交渉を行うこととは……そう「外交」である。
つまり「戦争」の反対は「外交」である。

日本人の歴代の外務大臣や外務官僚はそのような外交のプロたちが集まるということは本来であればそのようであるべきだが、どうも終戦後以降は弱腰にしか思えない。本来の意味をとらえていた外務大臣は私としては重光葵以外見たことがない。

さて話は変わるがアメリカ大統領選でオバマが勝利し、8年ぶりに民主党に政権が戻ってきた(同時に史上初の黒人大統領である)。ブッシュ政権における政治は悪いほうにウェイトを占めていたが、外交におけるブッシュ政権と日本の関係はじゃれ合いという感じはあるのだが、その前のクリントン政権時よりは友好であったと私は思う。しかしこのオバマ政権にて日米関係をどのように動かしてゆくのかというのが麻生政権、もしくは解散総選挙後の政権において重要課題の一つと言えよう。前のようなじゃれ合いや強硬案に服従するような隷従外交になり下がるよりも、敗戦国であるからでこそ誇りを持ち対等な関係としての外交が望まれる。つまり「No」と言える外交をしていただきたいということである。

本書は日本の外交の在り方をただすとともに、日本が行うべき外交とは何なのかということについて提言している。アメリカが政権交代を行うということを考えて旬な1冊であるように思える。

第1章はこれまで行っていた「思考停止」の日本外交、さらには国会議員やメディア、憲法について糾弾している。日本は敗戦によって文明が解体された歴史がある。しかしその「思考停止」は著者に言わせれば戦前もそうだったと書かれているが、これについては第3・4章について詳しく書かれている。

第2章は著者が提言する外交方法について書かれている。まず中国との外交であるが「日中友好」という言葉にとらわれすぎず「華夷秩序」をもっている国だからでこそ「友好親善が大事ではない」と強硬にはるべきである。むしろ中国が委縮しはじめるだろう。そしてもう一つは「嫌われ者と言われている日本」でいること。日本は敗戦後から目覚ましい経済成長により、今度は経済によって世界を侵食し始めた。「貿易摩擦」もその一つである。当然世界から非難を浴びせられる。先日も国際人権委員会で日本の「従軍慰安婦問題」と「死刑存置」に釘をさすような発言があった。国際委員会、特にEU諸国や中国や韓国がやる常套手段であるが、むしろ日本はそれに世界中の非難を浴びてでも「No」と言い続けるべきである。著者に言わせれば「嫌われ者を続けると、やがては尊敬される」からである。

第3章は教科書では絶対と言ってもいいほど教えない「戦争と平和」である。まず言わせていただくがこの「戦争と平和」と言っただけでトルストイの文学作品の話ではない。実は戦争は「若者の人口」と関連性があるという。ベビーブームの後には必ず戦争がることをつついているが、ちょっとこれについては検証する必要がある。さすがに今の時点でこれが立証されているとは自分の口からは言えない。

第4章は歴史の「もし」について、こうすれば「勝てる戦争」になったのではということが書かれている。大東亜戦争は当然戦争についての大観や設計を行っておらず杜撰なまま戦争を行った。その結果最初は勝利を収め続けていたが、結果的に敗戦国となってしまった。しかしこの戦争について「太平洋戦争では敗北したが、大東亜戦争では勝利した」という論者もいる(私もその一人である)。しかしそれについては国際的に発言しても結局門前払いとなってしまうのがオチである。なぜかというと、大東亜戦争開始の時には「鬼畜米英を駆逐する」という大義になっていた。それがのちになって「東亜の欧米による植民地支配からの解放」という大義に変わっていった。もしあらかじめ天皇の詔勅がそうであったのならば、戦争は勝っていたのだろうということだ。ほかにも「もし」がたくさんあるのだが、東京裁判においてもそのことについては語っている(「共同謀議」についての賀屋興宣の発言)がそう。

日本は外交が下手だと言われている。それは日本が敗戦国だからというレッテルにより弱腰になったと言われているが。裏を返せば敗戦国だからでこそ毅然となるべきではなかろうか。