痴漢冤罪の恐怖―「疑わしきは有罪」なのか?

日本で最も多い冤罪事件というと痴漢である。しかも痴漢の立証責任は被害者やその周りの証言ばかりが取り上げられることが多い(状況判断によりソフトを使ってシミュレーションというのもあるがいかんせんこれが高いという)。痴漢は当然取り締まらなければならない一方で、援助交際まがいにわざと痴漢を誘導させ、逮捕されなければカネよこせという人もいたり、こういった痴漢冤罪を逆手に取り示談金を荒稼ぎするようなグループもいる。無論これについても取り締まらなければいけないが、これらの人たちに対しての検挙率が高くない。というのは被害者の証言があれば痴漢の立証が成り立つというシステム自体も困りもので、出まかせに「この人痴漢よ!」と言われただけで、犯人扱いされる。さらに取り調べなどの勾留期間も否認をすればするほど長くなるという理不尽なものである。

本書は裁判所の醜態や裁判員制度について鋭く言及している井上薫氏が痴漢冤罪について裁判所の告発と共に書かれている。「それでもボクはやっていない」という本書のような内容も紹介しながら書かれている。

この痴漢冤罪の原因はというと、上記の映画の監督である周防正行氏は「満員電車」を挙げている。私もその通りであると思う。私も毎日満員電車で通勤しているが、そのような場で「痴漢」とも言われても実際に身動きが取れない。身動きが取れない中で「痴漢」と言われてもそれが冤罪であるかどうかも分からない。満員電車によって日常暮らしているサラリーマンでも冤罪になってしまう可能性というのはあるということを考えるとゾッとする。その満員電車にしている最大の理由は本書の内容とはずれるが東京の中央集権体制にあるのではないのかと考える。東京都(特に23区)の人口のみならず他県から通勤のために移る人も非常に多い。また主な駅では1日の駅の出入りする人は100万人以上にもなりとりわけラッシュアワーでは4・50万人にもなるという。それを政府は認識しているのだろうか。霞が関の官僚のように中央集権をもっとやろうとする人ばかりに目が言ってばかりでは、アルゼンチンのように経済が衰退してしまう。アルゼンチンは戦後間もない時は南米で最も豊かな街であった。しかしブレのスアイレスでの中央集権体制強化により経済が減速し、2001年に国の債務不履行(デフォルト宣言)に陥ってしまった例がある。当然日本の借金も800兆以上ある。今の状態では何とかやっていけてもこれがまたどんどん雪だるまのように広がれば、日本も債務不履行の状態に陥ってしまうということも考えなくてはならない。

話を戻す。痴漢冤罪がここまで社会問題となり、今刑事事件の中でも頭を悩ましている「痴漢」。当然痴漢は許されるべきではないが、このような痴漢冤罪を解消するというのは上記の理由のように並大抵のことではない。それと同時にここまでしていた政府や官僚の責任も大きく、やや飛躍となってしまうが、政府や官僚こそが痴漢冤罪を創り上げてしまったという論理につながるのではないだろうか。