大川周明の大アジア主義

大川周明という人をご存じだろうか。大川周明は戦前、及び大東亜戦争中に活躍した思想家であり、民間人として唯一A級戦犯として起訴された人である。本書が大川周明の生涯とその思想について書かれている。大川周明というと「日本二千六百年史」「「米英東亜侵略史」を読む」で取り上げているため詳しい歴史は省くとして、ちょっとブログの記事を読み返して訂正しなければならないところがあった。「日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」の時に「特にインドのチャンドラー・ボースらをイギリスへの送致を匿うことでより…」とあったが実際にかくまったのは「チャンドラー・ボース」ではなく、「ラース・ビハリ・ボース(通称「中村屋のボース」)らを…」の間違いだった。今まで気づかなかったこと、そして訂正しなかったことをお詫び申し上げます。では本書の中身に入っていこうと思う。

第一章「覚醒」
大川周明がラース・ビハリ・ボースを匿い、玄洋社の頭山満、葛生能久と共にインド独立に向けた援助を行った。これにより1957年に当時首相であったネルーから招待状が届いたという。

第二章「沈思」
まず飛び込んでくるのが作家の佐藤優が「大川周明ルネッサンス」を始めたきっかけについて書かれている。現在佐藤は最高裁に上告中であり、いまだに無罪を要求している。その裁判での第一審初公判の日に東京裁判における大川周明の奇行を思い出したという(東条英機の後頭をひっぱたき、退廷する直前に「It’s a comedy!!(一場の茶番だ!みんな引き上げろ!!)」というシーンである)。またここでは大川周明も提唱した「大アジア主義」の源流となった岡倉天心と戦後精神障害(脳梅毒)を患い退院後「コーラン」の日本語訳を完成させたルーツについても書かれていた。

第三章「血気」
ここでは前章までよりも多くの出会いについて書かれている、「魔王」と呼ばれた思想家北一輝や陸軍では石原莞爾、橋本欣五郎、松井石根と親交を重ねたが、北一輝とは後に敵対するなど離反も相次いだ。

第四章「円熟」
五・一五事件で禁固刑を科され、釈放されたあと「大川塾」を開設したところから始まる。「大川塾」というのは正式名称ではない。正式名称は「東亜経済調査局付属研究所」という名前で、所長が大川周明だったことから俗に「大川塾」と名付けられた。そこを出た卒業生たちは「南方会」という組織をつくり大川の理念を継承したという。後半では松井石根と大川周明の交流について詳しく書かれている。松井石根は南京陥落時の総指揮官であった。それがネックとなり東京裁判では「南京暴虐事件(通称:南京大虐殺)」に重点を置かれ絞首刑となった。中国ではいまでも松井石根を「極悪人」としているが、実際に松井自身は軍きっての日中友好論者であった。それとともに潔癖な性格であったためか、日中友好のために引き締めを行ったという行動が裏目に出たという論者もいる。また東京裁判においても松井自身は否定しなかった(ただし、否定しなかったのは部下の暴走による殺人事件があったということだけであり、大規模な虐殺を企てたということについては否定している)。また松井は日中友好のために日本に「興亜観音」を建立を計画しており、現在では熱海の伊豆山にその「興亜観音」が存在する。

第五章「遠謀」
大川は「学者としては血がありすぎて、志士としては学問がありすぎる」と言われていた。それを象徴付けられるのがこの章であろう。大川は橋本欣五郎と同じように日米戦争(大東亜戦争)開戦には消極的であった。しかし開戦になるや「大東亜戦争」の大義を連日、大川自身がラジオで演説し、国家高揚のために尽力した。そのことが重視され戦後A級戦犯として起訴された。

第六章「遺産」
大川周明が残した遺産とは一体何なのか。ここではインドのチャンドラー・ボースをはじめとしたインド独立に向けて行動した志士たち(インド国民軍)なのかと考えてしまう。

第七章「余韻」
東京裁判では精神異常により不起訴となったが、いまだに「仮病説」が存在する。そして大川周明は多くの本を世に出したもののGHQによりいくつかは焚書にされている。しかし大川周明は佐藤優をはじめ、多くの学者などが復刻を行い、一思想家の作品として再びスポットライトが浴びる時期が来るだろう。その先駆けとなったのが佐藤優の「大川周明ルネッサンス」であり、10月に発売(再復刻)された「戦後二千六百年史」がある。私も東京裁判について見ていく上で切っても切れない人物のひとりが大川周明である。これからもまた大川の作品が再び日の目を見ることを祈る。