ジャーナリズム崩壊

今でも新聞やTVニュースを見ない人は少ないと言われるほどであるが、今の日本のジャーナリズムは目に見えて危機的状況に陥っている。しかし本書にかかれているようなことは昔からずっと起こっているようであるが、インターネットの普及により情報の双方向化ということになれば日本のジャーナリズムは変革を行わなくてはならない状況になる。そのため本書のように悪い意味で「ガラパゴス化」している日本のジャーナリズムを糾弾する本が増えていけばと思っている。

第一章「日本にジャーナリズムは存在するか」
著者が言うに、

「日本に『ジャーナリズム』はある。ただしそれは日本独自のものであり、海外から見ればジャーナリズムとは言えない」(p.19より)

としている。
日本のジャーナリズムと海外のジャーナリズムの違いについてここで知りたくなってきたが、これも本章で紹介している。まず海外のジャーナリズムは間違いなく一般的な意味での「ジャーナリズム」と言える。記者自身が自分の記事で勝負を行い、悪い記事であったら赤書きでもっと検証しろとかと言うことを言われる。いい記事であれば褒められるというような形であり、どんなにベテランでも地位の保証は無い。それに引き換え日本では、記事のネタ元や供給源を独占的にとっており、さらに記事の検証を行うにも権力の圧力により封殺、もしくは歪曲されると言うことがしばしばあるという。コラムニストの勝谷誠彦氏があるTV番組で在京キー局や全国紙などメディアの状況について、「もう平壌ですよ!東京は!!」と発言したことを思い出す。まさに日本のジャーナリズムの現状はこのひと言で表せるだろう。

第二章「お笑い記者クラブ」
コラムニストの勝谷誠彦氏が利権談合共産主義の最たる象徴として記者クラブを挙げている。私もいくつかの本で記者クラブの現状について取り上げてきたが目を覆いたくなるほどあきれ返るようなシステムである。そもそも記者クラブの歴史は明治初期にさかのぼっているためこれをどのように変革するかと考えるとちょっとやそっとでは難しい。

第三章「ジャーナリストの誇りと責任」
ジャーナリストとは一体何なのかと言う考えに移る。海外のブロガーと日本のブロガーと比較は同じように海外のジャーナリズムにおいては実名で責任を持って公表をすることが絶対原則としてある。一方の日本では朝日新聞夕刊の「素粒子」のように匿名で幅を利かせたような報道を行っている。これは海外と日本の体質の差というところまで発展していかないと見えないところかもしれない。

第四章「記者クラブとは何か」
第二章でも書いたが日本の記者クラブの歴史は結構長く、明治時代に誕生したものである。戦前の言論統制やGHQによる検閲と言った変遷もあったのだが今のような体質になったのは上杉氏の見解では1978年、ちょうど「角福戦争」の時であろう。記者クラブの見解を変更したときからであり、取材全般にまで言及してきているところできな臭くなり始めたのだと言う。
記者クラブはまさに言論統制の陥穽の場とも言えるようになったのだが、東京都庁での「火曜日記者会見」がその最たる例と言えよう。

第五章「健全なジャーナリズムとは」
健全なジャーナリズムとは一体何なのかと言うのはいささか疑問が残ってしまう。だが以下のことを挙げてみたら明快に思える。

・実名を用いて記事に責任を持つ
・誤報だと分かった時点で、検証を行い逐一新聞で公開をする。

アメリカなどの海外の新聞では国々の差はあれど大概行っていると言う。日本でも検証報道と言うのは行っているものの、これは名ばかりで、結局自分に非が無いと言う主張を突き通すという、きわめて欺瞞に満ちた報道になっていると上杉氏は指摘している。昔であれば告発と言う媒体は限られてきたので、こういったことを突き通せれば突き通すことができた。しかしインターネットが急速に普及してきた今、双方向でありピンキリはあるものの信憑性のある報道も行われていることによって、嘘と言う化けの皮はいとも簡単にはがれてしまうようになった。それでも日本の主要メディアはそれを認めない、むしろ批判しまくっている。

健全なジャーナリズムになっていくためには上杉氏は記者クラブの開放を行うべきとしている。そのために内閣記者会にそういった提案を行っているが、私たちにもできることがあるのではないかと思う。それは上杉氏の手助けとしてこれまでの報道の欺瞞をインターネットと言う媒介で暴くことにある。今では2ちゃんねるなどで行われているが、そればかりでは信憑性が薄い。今では「PJニュース」というようなところでどんどん暴いていき、記者クラブの開放をやりやすくすることもそういった手段のひとつと言えるのではないかと私は思う。