英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます

英語教育論争は今も続いており、とりわけ小学校の段階から英語の教育の是非についての論争は激しさを増している。私自身は早い段階からの英語教育は反対である。日本語たる国語教育がままならないままで英語を身につけたら日本語も中途半端、英語も中途半端で結局本末転倒に陥ることが目に見えている。中学・高校において英語を勉強しても十分に話すことができない現状である(とはいえ、中高の英語教育は役に立っている部分はある。例えば大学での英語の文献の読解力はつく)。

英語教育の重要性を説くと、「今日本社会はグローバル化に向かって…」というような常套文句が乱舞する。グローバル化はいいのだがそれにかまけすぎて日本人として肝心なことを失っているのではないかと私は思う。

本書はこういった英語教育熱に反駁しながらも、英語教育の在り方について、著者自身の性格からか大東亜戦争の話と関連付けて書かれたエッセイである。まえがきにてお詫びの記述はあるが、私は気にしないというよりむしろ大歓迎である。日本の英語教育は戦後になって本格的に始まったのだから。

PartⅠ「常識が停止するとき」
中高の英語教育の事情について的の射た広告が本書に書かれていた。

「日本では中高で1100時間と言う膨大な時間を使っているのに効果が上がらない……」(p.7より)

中学では1週間に3時間、高校では普通科1年では1週間に5時間の授業が組まれている。おもにやることと言えば単語の復唱や英文和訳といったものが中心で、コミュニケーションにおいて肝心のオーラルコミュニケーションがほとんどない。それに学校の授業であるから土日は休みで英語の勉強に穴があく、さらに言うと今の英語教育は受験に重視しており「使えない」と言うのが現実としてある。

そして英語にまつわる常識のウソを紐解いてみると、日本人は外国語下手であるという。だがちょっと待ってもらいたい日本人の中にも外国語に関してはかなり話すことができる人もいる。だが今の日本のマスコミは後者にはほとんど目を向けないだろう。「視聴率至上主義」なのだから。

話を戻す、なぜ日本人は英語下手なのかと言うと私の知る限りでは2つ仮説がある。ひとつは日本語は平仮名・カタカナ・漢字と言った3種類の文字があり、さらに熟語などを加えると声に出して話す暇がないほど「読み書き」に膨大な時間を費やさなくてはいけない。外国語を学ぶ暇がない。そのことから外国語が下手になったということ(例外はあるが)。もう一つは日本語自体イントネーションやトーンなどが特殊であるため外国語の発音を聞き取ることができず、日本人は外国語が話せないというレッテルを貼られているということ。ただこれらは言い訳にしか過ぎず、日本人が英語下手と言うが、外国人はどうなのかと言うと皆が皆英語が上手いわけではない。なぜかというと外国語を勉強していなくても海外で堂々と英語なりを話すからである。「意識」の違いであると結論付けてしまえばそれまでかもしれないが、結局そこに行き着くことには違いない。

PartⅡ「常識が通じなくなるわけ」

「日本はガラパゴス化している」

これを見ておそらく悲観的にみる人の方が多いだろう。私はこれについては重要性を主張する側に回るが、本書を読んで半々の意見となってしまった。と言うのはガラパゴス化の根源を探っていくと日本人独特の「空気を読む」風潮が強く、いつの間にやら「世界の常識が日本の非常識」に「日本の常識が世界の非常識」になってしまった。これについては戦時中の「戦艦大和」出撃のことについて触れられているところがなかなかいい。もっと言うと大東亜戦争までの経緯もほとんどが戦略的ではなかった。その証拠には近衛・東条内閣において大蔵大臣を務め、戦後の池田内閣でも法務大臣を務めた賀屋興宣が東京裁判の起訴状を読んで恐縮に、

「軍部は突っ走ると言い、北だ南だと国内はガタガタで、おかげでろくに計画も立てずに戦争になってしまった」(小林よしのり「いわゆるA級戦犯」小学館 p.80より抜粋)

日中戦争(支那事変)や大東亜戦争になってしまった。空気を読みながら出行き当たりばったりになることが日本人の特性の一つである。
もう常識が通じない理由として、教科書や指導法に対する縛りが大きいことも理由に挙げられるだろう。

PartⅢ「常識を取り戻すために」
さて、どうしたら英語教育の常識を取り戻すことができるのだろうか。毎日継続して練習することしかないだろう。今の英語教育は1週間に○時間という考え方であり、「一日単位」の割り振りができていないことが現状にある。私は中学・高校時代吹奏楽部所属であったが、中学の時の顧問の先生に「1日休むと3日、3日休むと10日練習したことを忘れる」とよく言われた。1日でも穴があるとそれだけせっかく学んだ英語力も台無しとなってしまう。予習復習でもいいから継続して学ぶことが大事である。月並みではあるが。
今度はマクロ、政策の範囲で取り戻す方法についても本書は提言している。

・国民一般レベルでは最低限、高校卒業時点までに現行の中学3年間で習う範囲の英語の定着を目指す。
・仕事上、必要とあれば基礎力に加えて、高度な運用力を身につけるような教育を実現する(p.147より一部改変)。

私としては賛成だが、ミクロ的な政策として中学までは読み書き中心、高校からは会話などのコミュニケーション中心の教育を行ったほうがいいと思う。コミュニケーションが備われば英語圏に行っても恥ずかしくない可能になる、はずである(あくまで提言なので)。

本書は昨今の英語教育に関する論争に一石を投じた。その役割は大きく、暴走しがちな英語教育論争に冷静な観点でみたものである。