想い出のブックカフェ 巽孝之書評集成

今日は日曜日。

特段の例外がなければこの日の主要新聞は必ず「書評」の欄、読書案内の欄がある。書評をやっている私にとって勉強にもなり、参考にしているほどである。
著者は慶応義塾大学文学部の教授であるが、朝日新聞や読売新聞などで書評を担当したばかりではなく、学術誌・学会誌での書評も担当した人である。

よく新聞や雑誌の書評欄を見た方はいると思うが、新聞や雑誌の書評の文字数はそれほど多くない。ただ、「多くない」といっても自分のブログを基準で言っているため、人によっては「多い」という人もいるだろう。そして本の魅力をどのようにして語るのかという工夫はそれぞれである。

最近では私のような書評ブログが増えており、それによって購買意識が変わり売上変動に影響が出るというブログもある(どことは言わないが)。
本書のタイトルは「思い出のブックカフェ」というが、最近ではインターネットの普及により喫茶店の数が減少しているという。私自身、学生の頃から社会人に至るまで「喫茶店」は切っても切れないものであった。時にはテスト勉強や試験勉強のために喫茶店を利用することもあれば、高校の時には図書館で勉強できない場合は必ずといってもいいほど喫茶店を使っていた。店の人に迷惑ではないかという声もあるのだが、1〜2時間ごとにコーヒーをおかわりするので、コーヒー1杯で入り浸りということはない(それ以外の理由では迷惑だったかもしれないが)。

そして社会人生活でも喫茶店をはじめ、ドトールやスターバックスでコーヒーを飲みながら勉強したり、書評のネタを洗ったりすることがある。インターネットが淘汰される時代だからでこそこう言った空間がどうしても欲しくなる。そしてその空間の中で練った書評をインターネットの場でぶつける。

私は元来、うるさい環境の中で勉強すると余計に集中してしまう。そのためかだれもおらず1人だけの環境の時はなぜか怠けてしまう性質である。
それはさておき、本書のあとがきにはこの書評を出すことについての思いがつづられていた。著者自身この書評集を出す意欲はなかったという。
その理由はこうである。

「しかし学者研究者にとって、書評というのはノートブックにもひとしく、いずれ時が来たら利用すべき一種のデータベースだから、本来はそうした集積など決して表面に出さず、そこで得た見識は、やがて論文を書く時を待って生かすべきものだろう」(p.331)

書評を行う人が大学教授と言った学者が多い理由がここにある。つまり学者にとって書評はあくまで「データベース」に過ぎず論文のテーマによってその書評を道具として使うということに過ぎない。一方の書評家はどうなのか。本の魅力を語るのか、それとも読者に購買意識を高めるための道具にすぎないのか、それとも読書好きだから単なる評価にすぎないのか…、その定義は難しい。