21世紀の国富論

アダム・スミスの「国富論」を21世紀版にして書いたのが本書である。「国富論」のことについてちょっと簡単に説明しておく。

「国富論」は略称であり、正式には「諸国民の富の性質と原因の研究」という。これはアダム・スミスが1776年に出版された著作である。出版された時は産業革命が起こっていた時であり、工業、特に手工業(マニュファクチャル)というのが盛んだった時である。

ちなみにここで出てきた有名なものは「神の見えざる手」とも呼ばれる需要・供給曲線の交差する部分のことを定義たことでも知られている。

さて21世紀はというと、この「国富論」の理に適っているかというとちょっと無理があるように思える。「国富論」というのはあくまでモノの生産性を重視し、そこから資本化の利潤を追求し、分配される学問である。しかし21世紀である今の日本ではモノがまだ需要があるとはいえど一通り需要が飽和されており、逆に心的な欲求が高まっているのが事実である。その時にこの「神の見えざる手」などをいかにして使うのかというのが本書を読む前から気にかかった。

第1章「新しい資本主義をつくる」
本書は昨年話題となったIBMのパソコン部門売却から始まっている。現在世界のパソコン業界ではDELLやHPを筆頭に日本ではNECや富士通、東芝などが鎬を削っている
それはさておき先に断わっておくが、本書が出版されたのは2007年5月。サブプライムローンの焦げ付きがあったかなかったかという時であり、好景気の踊り場に差し掛かったころである。その時の経済状況は大きく変動していったのかというと、天然資源の面から見たら変わっていなかった。ロシアや中東諸国などは天然資源豊富だということで大いに経済が潤ったのは事実。しかし、日本などの先進諸国の面では若干形態が変わっているという。その背景にあるのが「数字」である。モノから「数字」に変化したのが先進諸国の資本主義であろう。おもに数字、M&A、株、肩書きと言ったものに淘汰された「資本主義」だと指摘している。確かに経済や経営を見るにあたりそう言ったものを見ない日はない。特に指標としてきたのがROE(株主資本利益率)、大学のビジネススクールでも、株や経済誌でも指標の基準の一つになっている。簡単に言うと「日米ROE至上主義」になっているのではと著者は指摘している。

第2章「新しい技術がつくる新しい産業」
これまでは「モノ」中心として社会は動いてきた。しかし今日では物的にも飽和状態となり、追い打ちをかけるかのようにインターネットの普及により「知的工業製品」がこれから反映してくるだろうとしている。著者によるとこれからはPUC(パーベイシブ・ユビキタス・コミュニケーションズ)、つまりコミュニケーションに基づいたアーキテクチャが出てくるのではないかと予測している。これまではコンピュータなどの機械の力によって築いたものが、今度は人間の血が通うコミュニケーションと言ったものがコンピュータのソフト・ハードの両面をもったものを統合する技術が栄えるのではないかとしている。

第3章「会社の新しいガバナンスとは」
「コーポレート・ガバナンス」はご存じだろうか。日本語で表すと「企業統治」とされており、理念上では株主総会により取締役が選任され、その中からCEOが選任されるシステムになっている。日本ではどうなっているのかはわからないが、アメリカではほとんど機能せず、ほぼCEO独裁といった模様になった。つまり取締役選任までCEOがやり、株主はCEOからの承認を与えるという役割にすぎなかった。ここではガバナンスというよりももっぱら会社の在り方をざっくりと説明したところである。

第4章「社会を支える新しい価値観」
今は世界恐慌の時代となり、また新たなブームが巻き起こる。もしくは不況の波を壊すべく新たなベンチャー企業が続々と出てくるのではないかと私は考える。今と様子は違うが2000年ごろにはIT革命が起き、数多くのベンチャー企業が誕生した。だが景気の回復や革命の終焉により次々と倒産し、生き残ったベンチャーはほとんどいなくなった。おそらく私はこの構図によく似た形となって続々出てくるのではないかと思う。

第5章「これからの日本への提言」
ではこれからの日本はどうあるべきか、本書の主張の根幹を占めるのは第2章で述べたPUCであるとしている。ではこのPUCはどのようにして広めていくのか、それの格好足るものが「地上波デジタル」だとしている。しかしちょっと待っていただきたい。2003年から地上波デジタルがスタートして、2011年の7月にアナログ放送が終了する。それなのに地上波デジタル対応型TVとチューナーを合計しての普及率は2009年1月の総務省による調査では49.1%しかない。さらに地域によっては受信できないところもある。アメリカなどいくつかの国々でも地上波デジタルの移行は進んでいるものの、普及が芳しくなく、完全移行を見送ったり、延ばしたりしているところもある。これについては総務省の柔軟な対応が求められるが果たしてこれから軟化していくのか、あるいはそのまま進んでいくのかというのが焦点となるだろう。

「国富論」と書かれているだけあって資本主義の変遷なのかと考えると期待外れの部分もあった。しかし、どのような産業、もしくは工業、企業になっていくのかというのであればなかなか面白い。