日本の英語教育に必要なこと―小学校英語と英語教育政策

最近は小学校でも英語の授業が行われ始めるなど英語教育の低年齢化が進んでいる。私自身は日本語が十分ではない時分に英語を教育して何のメリットがあるのか、そして中学・高校で英語教育をやって本当に英語力が身につくのかという疑問がある。著者自身もこう書いている。

「言語の認知科学を生業としながらも、学校の英語教育の在り方に大いなる関心を持ち続けていた筆者は、小学校英語の問題に英語教育が抱える問題の多くが凝縮されていると直感しました。」(p.3より)

本書は英語教育の重要性を述べたのではなく、英語教育を踏まえながら「本当の英語教育とは何か」「英語教育では何が必要となるのか」ということについて三回のシンポジウムの内容と番外編の記録である。

Ⅰ.「英語教育政策を考える」
「英語教育ほど社会からの要請に翻弄され続ける学科目も珍しいでしょう(p.17)」
最近では鳴りを潜めているが、歴史教科書をめぐっての「教科書問題」というのが話題となった時期があった。しかし英語教育に関してはそれはほとんどない。見えない形での「教科書問題」。それは「英語」ではなかろうか。
なぜ「英語教育」が重要視されてきているのか、おそらく企業にとっても、経済にとっても、外国の目を無視することができなくなった。いわゆる「国際化」「グローバリゼーション」の波が押し寄せたからだという。しかし「国際化」であり、外資企業が続々と日本に入ってきたことによって果たしてそう気に英語を使うべきという論理には無理があるのではと思う。以前に聞いたことがあるのだが早期に英語を行った場合習熟が早くなるというが、これも根拠があまりなかった。
ただ英語に関して最も需要が高かった時期があった。明治時代である。その時は鎖国から解放され続々と西洋文化が取り入れられてきた。そして政治や経済の形態も西洋化を進めるため必死に英語を学び、留学等を行い、取り入れていった。高度経済成長ではアメリカに追いつき追い越せと言った時代からバブルが崩壊したが、諸外国の文化を取り入れずとも近代的に確立してきたという感はある。それでもなお英語教育は早期化を進める人がいるというのはどうしてだろうか。
この「英語教育政策を考える」のシンポジウムは2003年12月6日に行われた。

Ⅱ.「<小学校英語>を考える」
外国語の早期教育は日本に限ったことではない。アメリカでは小学校教育で中国語を取り入れている学校があるほどである。これには2つの理由があると推測される。ひとつは中国系移民がいること。もう一つはこれからは経済繁栄のために中国と手を結ぶ必要があるということである。中国では、現在世界恐慌により成長は鈍化しているものの未だに日本より伸びはよく、最近ではGDPでドイツを抜き3位にまで上昇した国である。このままでは日本を淘汰するのも時間の問題という人もいる。さらに中国の人口は13億人おり、諸外国への移民政策も積極的だという。アメリカでも中国系移民を受け入れているところもある。
小学校教育は反対だが、もっともな必要性と、そして具体的な教育指針があれば考える余地はあるのだが、中学・高校における英語教育の前倒しという感じがぬぐえないというのも現実としてある。教育要領がない2005年の時にはほとんどの学校で何らかの形により英語教育を行っていることが分かったが、それを必修科目化の一つとして挙げられる「教育格差の是正」というのが如実に出ている。これが理由であればむしろ英語教育はいらないと思う。学校単位が決めることであれば、むしろ差別化により競争することによって、教育の充実を図ることが教育にとっていいことであると私は思う。
この章題のシンポジウムは2004年12月18日に開催された。

Ⅲ.「ことばの教育を考える」
ことばの教育に関しての議論がここで行われている。2006年2月15日に行われたものを収録している。ここでは「認知科学」におけることばへの関心、学校の英語教育、そして言語教育の審議について、最初に論評、後半に対談が載せられている。

私個人の意見であるが中学・高校のうちから、ましてや小学校のうちから必須として英語教育を取り入れることには反対である。むしろ母国語である日本語が十分でなくなったのは戦後日本の教育があったことも要因の一つとして考えられるからだ。「国語」を学ぶということは「自国」を学ぶことと同じである。それと同時に英語も「諸外国の文化」を学ぶことができる。しかし、今日本人は日本のことをどれだけ知っているのだろうか。そこに疑問点が生じる。英語を勉強することは社会人になっても、時間を使えばだれでもできることである。最近では英語のハウツー本も多数存在するため、英語をはじめ外国語を学ぶ環境はむしろ良くなっている。早期教育を行うのはむしろ「国語」であるべきと私は思う。