青年ヒトラー

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第二次世界大戦前後の中で最悪の独裁者とも言われるアドルフ・ヒトラー、今年の4月で生誕120年となる。ユダヤ人の大虐殺により歴史的汚点を築かせた張本人として今でも憎悪の的となっているのは周知の事実であろう。

この時期に本書が発売となったのだが、真正面からヒトラーのことについて書かれているものは珍しい。余談であるが、本書においてヒトラーの表記はファーストネームの「アドルフ」になっている。親しみをこめているのと同時に家族についても書かれているためである。

第一章「生い立ちの記、気ままな少年時代」
ヒトラーは1889年4月20日にオーストリアで生まれた。ここでは小学4年生の時から始まっている。当時から成績優秀であったヒトラーは雄弁で人をひきつけることを感じていたという。それが独裁者になって、大いに発揮されたのは言うまでもない。優等生だったヒトラーだったが気難しくあり、癇癪持ちであったために友人は1人しかいなかったその友人とは25年にわたる長きにわたって中断する者の、独裁者となった時に再会し、うれしい思いを手紙に綴っている。
気難しくどこか寂しげだったのだろうか。再開した時のうれしさにはヒトラーの人間味と言うのを垣間見る。

第二章「失意のウィーン時代」
その垣間見る人間味は別の面でも出てくる。この章では美術学校受験中の時のことについて書かれているが、その時に専ら趣味だったのがオペラ鑑賞、特にワーグナーの作品が大好きであった。ワーグナーの作品を利いている時のヒトラーについて友人はこう語っている。

「ワーグナーに耳を傾ける時のアドルフは、全く違った人間のようになり、彼のゴツゴツした面は消え去り、また彼の落ち着きのない不安定なそぶりは平静を取り戻し、柔らかい温かみのある姿に変容していった」(p.84より)

ヒトラーは上記のように気難しく、繊細な性格をもっていることがわかる。しかし好きなものにのめり込んでいる時の側面は驚くほど違ったものでなる。
先に美術学校受験中と言ったがなぜそれにこだわっていたのかというと、独裁者となり自殺するまで、「建築家でありたい(p.85)」という夢を持ち続けていた。独裁者の時でも都市計画をずっと構想し続けていたほどである。しかし美術学校の受験はことごとく失敗し、別の道に進むしかなかった。
さらにこの若かりし頃にヒトラーのイデオロギーとなる「反ユダヤ」や「反ボルシェビズム」というような思想に影響を及ぼした時期でもあった。汎ドイツ主義者のゲオルグ・リッター・フォン・シェーネラーと当時ウィーン市長であったカール・ルエーガーの2人であったという。この2人の演説にヒトラーは大きく傾倒していき政治家としての思想の基盤となった。

第三章「幸せなミュンヘンの日々と戦場の勇士」
兵役から逃れるためにドイツに移住したのだが、逮捕されオーストリアに強制送還された。わずか1年のひとときではあったが、そこで画家として自分の水彩画を売り歩いていた。ヒトラーは主に建物の絵が多く、独創的ではないのだが、きれいな描写がなされている。インターネットでも閲覧可能なのでぜひご覧いただきたい。
強制送還され徴兵されるのだが、不適格と判定され兵役を逃れた。しかし同時期に第一次世界大戦が開戦され愛国心に駆られてオーストリア国籍のままドイツ帝国の兵士となった。そこから目覚ましい活躍となったのだが、自尊心の高さと指導力不足により昇進はある程度のところで止まった。

第四章「極右政治活動への突入と破滅への道」
第一次大戦でドイツは敗北し、国としての威信を取り戻すために建築家から政治家を目指すようになった。小さい頃に雄弁で人をひきつけることを感じていたことが多いに行かされた時期である。その雄弁な演説で「ドイツ労働者党(ナチスの前身)」の党首の目にとまり入党。それ以後については歴史の教科書に書かれているとおりである。

ヒトラーは第二次世界大戦最悪の独裁者であった。これは誰にも歪曲できない事実であり史実である。しかし、独裁者と片付けて人物像を見ないというのは本末転倒である。戦争があったからでこそ、この戦争や独裁者や背景に関して面と向かって論じたり、見たりしなければならないと私は思う。
本書はヒトラーを真正面に向かって良い面も悪い面もすべて書かれている良書である。

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