父の背中―拙者のハンセイ

2009年3月21日に林家いっ平が「二代目林家三平(以下:二代目三平)」を襲名した。本書はそれより少し前に出版された二代目三平自身の自伝であるが、海老名家と言えば先々代の正蔵(七代目林家正蔵)や初代林家三平の功績により裕福な家庭として育ったおぼっちゃまというイメージが先行するのだが、やはり噺家の道はしっかりと進んでいた、と思わせる人生であったとそう考えさせられる。

<遠い日に>
<父の手>
<父が泣いた>
<時を超えた遺影>
<大トリ>
<金属バット>
<キツネとタヌキとオカメ>
二代目三平が生まれたのは1970年。ちょうど初代三平が大ブレイクしていた時である。ここではまだ幼い二代目三平が、父・初代三平の思い出話を綴っている。年端もいかない頃に「豆三平」として高座に上がったことがあったそうだ。
今はそうではないのだが、昔は「父は怖い、母は優しい」というのが相場だったという。しかしこの時にはもうすでに逆転したのかという驚きさえした。たまたまこういう家庭だったのかの考えもあるが、二代目三平から見たら「父は優しい、母は怖い」という存在だったという。
ちなみに九代目正蔵は「父は怖い、母はもっと怖い」と言ったのかもしれない。それは御愛嬌ということで。

<遺言の波紋>
<我が家の食卓>
初代三平の死後、三平一門の風当たりが手のひらを返したように強くなったというのは今年1月に書評した「おかみさん」で取り上げているので割愛させていただくが、二代目三平から見てもその風当たりの強さというのが窺える。

<七光り>
<見習い>
<笑わせる腕になるまで泣く修行――故林家三平>
<小朝師匠からの手紙>
本書の核心というのはここであろう。
二代目三平は大学入学したころは興味がなかったという。大学在学中に海外に行く機会がありその中で日本文化、特に落語の素晴らしさというのに出会いこん平一門に入門したというのがきっかけであるという。「若いうちには旅させろ」というのがあるがまさにそれが実証された所である。
さて見習いを経て噺家になったのだが、前座から二つ目に至るまでは下働きで、給料もろくに出ず、朝から晩まで働き通しであったという。私から見ても「壮絶」という2文字以外見つからないような日々であった。
前座時代から落語の修行がままならず二つ目に上がったが、今度は七光りの影響からかTVリポーターに引っ張りだこという存在になった。当然修行もままならず、持ちネタもほとんどなかった。師匠らから叱責を受け続けても自分の反発心からか、ずっと成長していなかった、それを見かねて春風亭小朝がある手紙を渡した。二代目三平の核心に迫った檄文であるが、今の自分にもあるのではとも考えさせられる手紙であった。一部だけ紹介する。

<次に現実問題。これからのいっ平君は>
4、自分では仕事をしているつもりでも認知度が低い。
5、として考えると、上手くもおもしろくもなく、インタビューされても自分の家族のことしか話す事もない。
<では、どうするか。>
1、自分の特性を少しでも知ろうとすること。
3、誰をアドヴァイザーにするのか。
4、自分にとって大切なことの優先順位をきちんとつけておく。
5、先々にきちんと目標を持ち、そこに向かって集中する。
6、そして何よりも大事なのは、きちんと戦略をたてて、思い切った冒険に出ること!(pp.185-187より、一部抜粋)

まさに自分の現実に似通っていた。と同時に、ビジネス書で語られていたこととよく似ていることが手紙にはちりばめられていたように思えた。
話を戻すがこのことで二代目三平は衝撃を受け改心し、落語を真剣に取り組むようになり2002年に真打昇進を果たした。

<橋と噺>
<おかみさんへ、そして母へ>
それからというもの、古典落語の修行の傍ら、英語落語・中国語落語に挑戦をしている。特に中国語落語は2005〜2007年と毎年のように上演していた。そして今年の3月に周明にいたるという話である。
最後の2つは二代目三平を襲名することにあたっての意気込み、思い、そして親への感謝がつづられている。
初代三平は「昭和の爆笑王」をほしいままにし、亡くなるまで「大スター」であった。二代目三平は上記のとおり英語・中国語落語や古典落語をひたむきに挑戦しているという。
初代三平とは違った新たな「三平」がどのような看板になっていくのか末永く見てみたい。