教師の品格

あなたにとって「教師」とはどのような存在なのか。
あなたが考える、理想の「教師」というのはどのような人か。
「教師」のあるべき姿とは何なのか。
今に始まった話ではないのだが、教師による犯罪や子どもたちのいじめを教師が放置するといった事件が起きているのは言うまでもない。
子供たちにとって勉学を教えられるばかりではなく、両親以外に礼儀や人生を教える立場にあるのが教師の役割と言ってもいいだろう。
「品格本」の一種であるためあまり気乗りしないのだが、教師にまつわる現状、教育現場や教師の理想像について再考必要があるため本書を手に取った。

1章「昇進や採用の不祥事はなぜ起こるのか」
昨年、大分県で起こった教員採用による汚職事件が本書を出版するきっかけとなったのだろう。
この事件は縁故のある学生が他の学生より成績が悪くても採用されるということがあった(以前からこういった縁故採用はやっていたという)。
おそらくこの縁故採用や贈収賄が常態化した原因には教育委員会のみならず、2章で述べる教師社会の閉鎖性というのがあるそうだ。

2章「なぜ教師社会は閉鎖的なのか」
ではなぜ教師社会は閉鎖的なのか。その要因となるのは「わかりやすく教える」ために自分で考え込む時間が増えていったという所にあるという。
ただそれが孤立化や内向的になる要因だとしたら、もっとわかりやすく教える立場にいる塾講師はもっと内向的になるはずである。塾講師の動向についてはあまりよくわからないが、あまり内向的であるように思えないと考える(塾講師でありながら様々な交流会に参加している人も中に入るのだから)。
他には「困った教員」についての特徴を取り上げている。

3章「教員の現実と社会性の薄い教員養成(系)の大学」
教員になるためには教育系の大学に入るか、教員養成コースのある大学に通って単位を取得し、教員免許を取り、教員採用試験を受け合格してはじめて教員になる。
その間は教育論や教員としての理論ばかりで実践はそれほど重視されない(あっても模擬授業や教材作成が少しあるくらいである)。教育実習も行われ、実際に現場に出て授業を行うということはあるが、それもわずかな期間しか行われない。
現実社会とそこからかい離した理論の狭間にいることにより、社会性が希薄なものになってしまう。

4章「学校閥に胡坐をかく教師――教員採用のからくり」
教員採用の在り方、そして教育大学(旧:師範学校)の存在について批判したところである。

5章「学校の常識は世間の非常識」
学校と世間の間には昔ほどではないのだが、それでも大きな隔たりというのが生じている。学校で教えられたこと、教科だけではなく学校という場で人生において生きていくにあたり重要なことについてもそうであるが、役に立たないわけではない。しかし役に立つといってもわずかなものでしかない。ではなぜこれほどまで隔たりが生じたのか、どこが原因なのか、突き詰めていっても教師、教育委員会、日教組、文科省と落とし込んでいっても結局は教育関係が全部悪いという結論になる。

6章「働きやすい職場をつくるには――教師の品格を求めて」
江戸時代には教育の場として「寺子屋」というのがあった。そこで勉学を磨いたり、礼儀作法を身につけたりしたという。しかしその勉強は「寺子屋」だけにとどまらず、家族や地域の人たちとのコミュニケーションによるところが強かった。「寺子屋」はサポートや援助をするという役割だったといえる。
では今の学校は、教師はどうだろうか。
地域や世間から乖離してしまった場となっただけではなく、そこで学ぶ親が学校にすべてゆだねてしまったことにより、地域と学校との不協和音が時折強く響いてしまっている。
今日の教育問題がこれほど深刻になった要因は何年経っても変わろうとしない体質、それらが作る環境によって生まれた緩み、そして共働きが多くなったというのも原因に挙げられるが、親が躾といったものをすべて学校に丸投げしたことというのが大きい。

この教育現場をよくするためにはどうするか。これだけのことを放置していたことを考えると、一瞬で直すには教育委員会や日教組解散というような大胆な手段であれば可能であるが、いかんせん教師の反発もあるのでなかなか上手くいかない。悠長なことを言うかもしれないが、年月をかけて教育の現場を試行錯誤で変えていく、というしか策はない。