「死の美学化」に抗する―『平家物語』の語り方

「日本は死者の国である」

もう何回言ったのかわからないが、怪談話で知られる小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの言葉である。

日本では死んだら宗教によるが、通夜・葬儀を経て墓に送り、そこから一周忌・三回忌・七回忌…というように供養を重ねていく。これほどまで死者に対して礼をつくした宗教は少ないように思える。

さらに日本の文化には「死」というのを題材にした作品も少なくない。「死」というのを考えさせられるばかりではなく、「どのように死ぬか」「「死」とはどういうものなのか」というのを考えさせられるには材料が多い。

その根源となったのが700年前、平氏と源氏の争いを描いた「平家物語」である。
しかし著者はこの「平家物語」によって「死」を美化させているのではないのかと批判的にみている。ではこの「平家物語」というのはどのような観点で読むべきなのだろうか、そもそも「死」を美化させた所は一体どこで、なぜ「美化」させたのだろうかという所を本書で考察している。

第1章「教育/権力/物語――もう一つの<原/平>合戦」
平家物語における教育や権力や物語について引用しながら関連性について考察を行っている。本章の冒頭にはなぜかUAの「HORIZON」椎名林檎の「本能」の歌詞の一部が引用されている。
平家物語との関連性なのか、それとも歌詞から見える感情が平家物語の考察において最良の材料となったのだろうか。

第2章「「教えられるのか」/「どう学ぶか?」という問題講制――<理論>が拓く地平」
「平家物語」は中・高の古典の授業でも扱われており、入試問題でも出題されることが多い。
しかし本章ではこの学校における「平家物語」の扱い方にも批判をしている。
私は古典教育に関しては賛成であるが、ただ単に古文の翻訳と一文から心情を読み取るというようなことが何の役に立つのかというのにはいささか疑問がある。
原文との対訳を見ながら読んでいくのがベストで、さらに古典作品の漫画版を読んで風景を知るというのはベターと言える。

第3章「知盛<神話>合体――教室で『平家物語』を読むことの(不)可能性」
ここでは巻十一「那須与一」にある平清盛の四男である、知盛の神話について批判している。
壇ノ浦の合戦において海に身投げをして自害をしたことで有名であり、その死に様は「美学化」の一端を担っている。

第4章「<父―息子>の『平家物語』――アンチ・ヒーローとしての宗盛の可能性」
ここでは三男の宗盛のことについてである。宗盛は他の兄弟と違い、あたかもドラ息子のように傲慢で反感を買いやすい人物であった。
本章でも宗盛の「アンチ・ヒーロー」ぶりについて批判を行っている。

第5章「<貞女>――<知>にダブルバインドされた小宰相」
ここでは「貞女」という所について書かれているが、そもそも「貞女(ていじょ)」とは何か。ある辞書で調べてみると、
「夫に対する貞節を固く守る女性。貞婦。」
あまり理解できないような定義であるが、簡単に言うと夫に対して一筋であり、たとえ死んだとしても再婚することは絶対ない女性のことを指している。

第6章「熊谷直実の<まなざし>――死者の魂を分有する」
熊谷(次郎)直実と言うと巻九の「敦盛の最期」で活躍する武将である。
一番最初に平家物語を読んだ(というよりも習った箇所)がちょうど「敦盛の最期」である。
敦盛の死に方という所の批判を中心に書かれている。

第7章「建礼門院の庭――『源氏物語』を読む<女>」
建礼門院は清盛の娘であり、安徳天皇に嫁ぎ壇ノ浦の戦いで平氏滅亡とともに出家し、ひっそりと亡くなった。この安徳天皇はわずか2歳で即位し、8歳で崩御した。
建礼門院と言うと当然平家物語における女性の扱われ方ということについて書いているのかなと思ったが「更級日記」と「源氏物語」が中心であった。

本書は「平家物語」で語られてきた「死」についての批判と、これまで無批判に構築されてきたことについて、自らの高校教諭の経験を交えながら、「平家物語」で語られてきた虚を突いた。

しかし本書は「平家物語」についてある程度読んでいないと、どのようなところを考察しているのかというのがよくわからない。おそらくこういうのがあったという無味感想で終わってしまうというのがオチである。

幸いなことに本書の補章には「平家物語」に関するマンガ案内がある。平家物語についてあまりよくわからない人、もしくは平家物語についてもっとはっきりと、かつ詳しく知りたい方はここから出てきているマンガを参考にしながら本書を読み進めることをお勧めする。