最近、書評が追いつかなくなっていきました。
ただ読書は続けています。
こういう状態になるまでは今まで書評をたくさんやっていきましたが、なぜ数多く取り上げてきたのか。
それについては後ほど。
(8/1 2:20追記)
これは書評の記事でもセミナー後の懇親会や交流会でも言っていましたが、当初私は「書く」ということに抵抗がありました。
特に作文やレポートと言ったものが大嫌いで、誰かのために「書く」ということが自分自身でも恥ずかしくて、ただ「苦しみ」にしか思えなかったのです。
しかし、
就職活動の時に読書をはじめ、それから備忘録として書評を始めたとき、文章を書く考え方が変わりました。
今は、書評をすることが自分自身の文章表現を磨く手段として、そして愉しみとなっています。
「書評」は備忘録という考えは書評を続けて約2年半たった今でもそれは残っています。しかし、それだけではなく、自己成長や文章力を磨く、表現を磨くというツールとしての役割もあるのかもしれません。
「自分自身、文章によってありのまま表現したい」
書評や様々な記事を書くときにそう思って日々書いています。
ただ、最近はプロジェクトが佳境に入ってきたため、あまり書けない状況に陥ってしまいました。
その中で読書は欠かしていません。
ではなぜ読書を続けているのか。
「知るを楽しむ」
というのがあるのではないかなと思います。
読書をすることによって多くの「学び」ができます。
それを成長するために実践をする、もしくはそれに日もづく文献を読んで違った角度から物事を観る。それが連なってもっともっと知りたくなる。
その循環によって読書が面白くなっていく。
読書は最も効率的に多くのことを学べるツールです。それが昨今「読書術」というのが数多く出てきた所以なのかもしれません。
ただ、私の読書はほとんど「楽読」という要素が強いです。「実読」は否定する気もなく、むしろ奨励することもありますが、私はあまりやりたくないというのが本音です。
仕事に直結することだけ読めばいいという読書は私の性に合わないからです。というのは、私自身、「読書をすることを愉しむ」ことと考えていることにあります。
愉しめるからでこそ、読書を続けられる。私が読書を続けられる理由はここにあります。