社会という檻

「世間」「社会」「常識」「一般」とい言葉が飛び交う世の中。そういった言葉たちがあたかも当たり前のように叫ばれている。そのことによって思考停止に陥る弊害もあるが、良く口にしている人たちはそれに全くと言っても気づかない。そういった人が本書のタイトルである「社会という檻」の中に入っていることに気付かず、かつ出ようと思わないのではないかとさえ考える。

では本書はそういったことを突いた一冊なのかというと、そういったことについても書かれているがほんのわずかなものであり、残りは人間の進化をもとにして私たちの生活のなかでどのようにして見えざる「檻」が形成されたのかということについて考察を行っている。

第1章「人間は動物である」
人間は例外なく「動物」と言える。しかし他の動物と決定的に違う点が一つある。それは「理性」というのが発達しているからといわれている。一方で脳が発達しているためといわれるが、同じ哺乳類のなかにイルカやクジラなどは人間に匹敵、もしくは凌駕するほどといわれており、本能についても他の動物より劣っている。
理性以外に人間が「人間」であることからできた力とは何か。それは次章以降において考察を行っている。

第2章「人間における社会構造の起源」
人間は特有の社会構造を持っており、そこから「世間」や「社会」というのが形成されていった。もっと言うと、「集団」を形成することにより文化や文明というのが形成されたといってもいいかもしれない。

第3章「人間文化の起源」
ここでは人間の脳の進化とともに人間の文明の変遷について書かれている。ここでは社会学というより生物学的な観点から人間文化についてどのような影響を及ぼしたのかというのが中心となっている。

第4章「最初の人間社会――狩猟・採集民」
人間の生活が「社会」として形成されたのは旧石器時代や縄文時代といった、いわゆる「狩猟」の文化が栄えたときである。インダスやメソポタミア文明という「4大文明」が栄え出したのは約4000年以上も前のことだが、狩猟が栄えたのはそれ以上も前のことである。
歴史学的な「文明」とは言い難いものの、人間としての「文化」が形成されたということは緩やかな「文明」と言えるのではなかろうか。

第5章「親族関係の檻――初期農耕社会」
狩猟の文化が栄えたのは約5万年ほど前であるが、農耕社会ができたのは中国大陸で約15000年前であると現在判明されている。初期農耕は鍬などの道具がつかわれているように思えるのだが実は家畜を利用して農耕を行い、そこから種蒔き、収穫といったような要領であった。農耕のための道具がつかわれ始めたのはそのあととされている。

第6章「権力の檻――農耕社会」
農耕は狩猟以上にチーム戦という要素が強くなる。その中でもチームをまとめるリーダーというのが必要であり、その力が増大することによって「権力」というものと化してきた。それが文明という形で花開き、権力や社会、主従関係、差別というようなものが形成され始めたといってもいい。
全ては人間における文明の中で檻ができ始め、やがてそれはより強く、より狭きものとなって言ったのだが、私たちはそれに気付かず今日も生き続けている。

第7章「社会という檻からの脱出――産業社会」
農耕から手工業、やがて機械工業と「産業革命」を通じて様々な形で「文化」というのは進化し続けた。「産業社会」でも当然の如くその「檻」というのは存在したが、その「檻」から あらゆる手段でもって脱出しようと試みる出来事があった。そう、「革命」である。「革命」によって様々なイデオロギーや思想が生まれ、それに追随して国家や政治、経済、文化といった所にまで及んだ。「世界」という一つの「檻」から脱し、新たな「自由」に向かって歩み始めた。しかしその自由の中にも新たな「檻」というのがあった。

第8章「人間は社会的である、と考えすぎることの誤謬」
どの思想家が言ったのか分からないが「人間は社会的動物である」と唱えた。今日生きている私たちは「社会」という一つの箱の中に生きているということを考えるとまさにその通りかもしれない。
ただ批評家の中にはこの箱、すなわち「社会」を批判する、もしくは嘲ることが多い。そう主張する人たちも結局その檻の中で暮らしている。このことは忘れてはならない。

「社会」という名の「檻」は、我々人類の進化とともに進化し続けてきた。そして今やその檻はより強固に、より小さきものに進化し続ける。それに対して抗うことはもうできないのかもしれないが、その檻の中で上手に生活する術というのは本からでも、先輩からでも教えられることはたくさんある。脱することも大事だが、上手に付き合うというのもまた大事なことであろう。