板垣征四郎と石原莞爾

8月15日、大東亜戦争、及び第二次世界大戦が終焉して64年という節目を迎えた。同時に日本軍の中で「天才」と唱われた石原莞爾の命日でもある。板垣の生涯について、石原の生涯についてといったそれぞれの紹介の本はこれまで多く刊行されており、満州についての本も板垣と石原の両方について書かれている。

しかし本書は、あくまで「板垣征四郎石原莞爾」をクローズアップしているため、満州建国や大戦、東京裁判に至るまで両者の関係と関わりについて考察を行っている数少ない一冊である。

第一章「双竜の系譜」
方や陸軍大臣まで上り詰めたものの東京裁判において刑場の露と消えた板垣征四郎、天才と謳われるものの、あと一歩のところで自らの構想が頓挫してしまった石原莞爾。本章では二人の生涯と出会いについてである。
板垣は豪放磊落、健啖という言葉がよく似合う親分肌で、自らの思想はそれほど表に出さず、仕事も任せるということが多かった。しかし部下の失敗や責任については自分が持つということで部下からも慕われていた。
一方の石原は「天才」という言葉をほしいままにしているが、その裏では兵法のみならず哲学や歴史に精通していた。しかし天才であるがゆえに数々の奇行、もとい武勇伝があるほどである。天才と謳われた故かプライドが高く、真っ向から対極となした東条英機とは犬猿の仲であり、登場の仕事ぶりを「東条上等兵」と悪口を言うほどであった。
両者の出会いは大正時代に中国大陸に派遣してからの時である。両者は出会うなり同じ東北出身のことあってか意気投合したという(奇遇かどうかわからないが東條の本籍地も岩手と東北である、但し出身は東京)。

第二章「雌伏」
大正時代といえば「第一次世界大戦」の真っ只中であり、日本はちょうど軍需景気により急激に経済が潤い始めたころである。さらに板垣にとっては子宝に恵まれるといった幸運があった。
その一方で中国大陸では大戦後までくすぶった、国民党共産党の構想が始まった。後に蒋介石が国民党に、毛沢東が共産党についたことでも知られている。この構想の諍いのなかで最もとばっちりを受けたのは日本である。共産党や国民党は日本に対する抗日・侮日をやることによって自らの面子と党の威信を拡大し続けたのである。
しかし蒋介石にとっては自らかくまってくれた国とプライドとの葛藤が激しく交錯していたように思える。日本の大学に留学した経験を持ち頭山満らと親交を持っていただけに、である。

第三章「風雲」
親分肌の板垣、天才肌の石原は性格の違いによる相性がこれほど会う人はなかったのだろう。
本章では満州建国までの道のりを本章と第四章にわたって描いている。特に昭和初期以降にかけては大陸東北部に日本軍を進駐し、満州国を建国するといったことを行おうとした。しかし中国国民党や共産党の条約やぶりによる裏切り行為は後を絶たず、満州国建国になってもその状況は続いた。

第四章「建国へ」
満州国を建国したのは1932年の2月に建国をされた。それの承認に際して常任理事国の一国として担っていた国際連盟を脱退したという代償はあったのだが、石原や板垣としては国力備蓄のための大きな砦としての役割を考えていた。
満州国は皇帝を置きながらも民主主義としての政治を担いながら、独自の経済成長を続けた。満州国は大陸の人たちにとってはまさに「天国」とも思わせる国であり、100万人もの人々が満州に移民した。ただその権益を狙うために大陸の軍閥や国民党や共産党が略奪や殺人や紛争といったことを仕掛けてきた。

第五章「暗雲」
特に国民党軍との衝突はたびたび起こり、そのたびに「休戦協定」を結んだが、ことごとく破られまた衝突といったことが起こった。裏切り行為にしびれを切らした日本政府はついに上海派兵を行いそのまま日中戦争(支那事変)が始まった。

第六章「崩壊の序曲」
石原は東條との衝突により、左遷され、大東亜戦争に入ったころには予備役に移された。一方の板垣も満州国建国後に左遷され日本に戻った。
逆に登場は陸軍次官に就任し、のち陸軍大臣に就任。その後首相にまで上り詰めたが、本人はそのようなことを望んでいなかった。首相に就任したのは木戸幸一内大臣の鶴の一声、もとい貧乏くじを引かせようと考えたことであり、本書では陸軍次官に就任した経緯について詳しく書かれている。何度も言うが決して本人の意向とは全く関係のないところで東条は上り詰めた。
やがて大東亜戦争に突入し、前半までは日本有利であったのだが、ミッドウェー海戦以降は敗戦続き、1945年8月15日正午日本は降伏した。

第七章「裁き」
ここでは章題から想像して容易にわかることだが「東京裁判」についてである。当ブログも昨年の12月までにどれだけ東京裁判について取り上げたか分からないが、ここではあくまで板垣と石原について語る。
石原は満州事変などにかかわったということを考えればA級戦犯といわれてもおかしくないのだが、結局A級戦犯になることはなかった。彼をGHQが尋問を行う度にことごとく論破されたというのもその理由の一つに挙げられる。ただし石原は証人として東京裁判の法廷に立ったことはある。
一方の板垣はA級戦犯として逮捕・起訴された。特に広田弘毅の弁護人が陸軍に対する横暴を暴いた時に声を荒げて取り下げるよう広田に迫ったというのは語り草である。あろうことか両者ともに処刑され、ともに万歳三唱をやったというのはGHQの策略だろうか、単なる偶然なのだろうか未だに謎である。

板垣征四郎と石原莞爾の関係を語りだすと大正から昭和、戦中、東京裁判に至るまで縦横無尽できる。
特に満州のことについては両者とは切っても切れないものと言える。そのことがよくわかる一冊であった。最後に石原が板垣の絞首刑確定の報を聞いた後、病篤の中、人伝いであるが板垣に伝言した。
「石原も遠からず追いつくことと考えられますから、もし道のあやしいところがありましたらお待ちください。道案内は自信がありますから(小林よしのり「いわゆるA級戦犯」p.121より)」
最期まで板垣のことを慕っていた石原の姿がそこにはあった。