「説明責任」とは何か

今や「謝罪会見」のニュースを見ない日はわずかしかない。謝罪会見と言うと社長といった重役の人たちがまずは陳謝の形として深々と頭を下げてから、釈明とお詫びをする。そして新聞やニュースの記者たちから執拗な質問が待っている…と言うような構図であるが、この中で「説明責任」という言葉も本書でも書かれているようにある種の「妖怪」という形で蔓延っている。本書はその「妖怪」のメカニズムを解き明かすとともに、「説明責任」の問題点を明快に洗い出している。

第1章「日本を徘徊する「説明責任」という妖怪」
昨今「説明責任」を問われなかったニュースを探すだけでもひと苦労するほど、この言葉は罷り通っている。むしろそれなくして日本のニュース・メディアは成り立たないといってもおかしくないほどにまでなった。
本章で挙げられているものでは今年の春に民主党幹事長の小沢一郎の公設秘書問題などが挙げられている。

第2章「「説明責任」の原義と歴史的流れ」
この説明責任の源となった言葉は「accountability」という単語にある。「account」とある様に会計において使われる言葉で、60年代あたりからアメリカで納税者に対して受け取った税の使い道を説明するという考えから生まれたものである。
日本でも会計でも使うことがあるのだが、メディアによっていつのころからか疑惑追及による「説明責任」という言葉に変わってしまった。

第3章「日本人の民族性が「説明責任」を複雑にしている」
日本人の特性の一つとして「阿吽」の文化というのがある。言葉のコミュニケーションを交わさなくても相手の表情や空気を察知して返事をするという独特の所作がある。
外国人が日本人に対して不思議の念を抱いているものの一つとして挙げられている。これについて私は肯定的であるが、「説明責任」や「風化」「言い逃れ」「曖昧化」という点で悪用されているのも事実である。

第4章「日本における「説明責任」の実態」
日本における説明責任といっても様々なものがあり、明らかな悪意がある事柄に対する説明責任というのは追及されるべきであるのだが、困ったことに日本の風土の一つとして「完璧主義」が挙げられている。
たった一つのミス、約束事を一つでも守れなかったら一斉に蜂の巣の如く叩く、追及するというようなことばかりである。しかしその追求から逃げずに立ち向かい、まっとうとした姿勢を貫けば失敗も利益になる。

第5章「危機管理と「説明責任」」
「備えあれば憂いなし」という言葉があるが、本章ではそのことを言っている。
企業の不祥事やミスといったことに早急に対応できるように、企業や個人単位でどのように低減させるべきなのかという概念や枠組み、さらには松下幸之助、ジョンソン&ジョンソンのケースに至るまで網羅されている。
特に松下幸之助のエピソードは圧巻である。

第6章「パブリック・リレーションズの中の「説明責任」」
パブリック・リレーションズ。略したら「PR」と書かれるため、パブリック・リレーションズという言葉にピンとこない人はそのまま「PR」と考えても差支えない。
説明責任を果たすためにどのようなことを為すべきかの一つに「PR」をどのようにして築いていくのかという重要性を主張しているところである。
個人の倫理観や戦略、それを裏付けるためにターゲットやリサーチを行い、プログラムを構築するというものであるが、説明責任をうまくしていくためには…というビジネスの部分もはらんでいる。

第7章「日本におけるパブリック・リレーションズの流れ」
「PR」はアメリカで形成されたものである。では日本では「PR」は形成できていないのかというとそうではないようだ。明治時代にはすでに誕生していたが、「PR」に拍車がかかったのは戦後になってからと言われている。

第8章「パブリック・リレーションズはいま」
企業の「PR」活動は活発化しているものの、海外の目から見て発展途上にあることは否めない。隠蔽体質と言えばそれまでであるが、日本には「門外不出」という文化が根強い国の一つである。その証拠の一つとして江戸時代の象徴の一つであった「鎖国」にある。あらゆる文化や視野を謝絶し、独自の文化を創り出した点は良かったのだが、それによる閉鎖的な体質が形成されてしまったのは皮肉と言える。

「説明責任」はどこの世界でもいわれるようになったのだが、それにどう立ち向かうのかというのが分からないということもある。それだけではなく、「正しい果たし方」をしても結局つついてくるメディアもあることから、メディアとの向き合い方というのもまとめて学んだ方が「説明責任」を果たすうえでいいかもしれないと本書を読んで思った。