マスメディア 再生への戦略

当ブログでは新聞やTVなどのマスメディア批判や考察を扱っている本を書評したことが何度もある。私自身はどうかというとTVはそれほど見ず、新聞もほとんど見ない。ニュースはインターネットで事足り、わからない情報、もう少し深く掘り下げたいものであれば雑誌がある、他にも本があるので必要としないと考えているためである。

しかし、批判はするが、完全に無くなれとは言っていない。むしろ「変われ」と言っている他ない。「マスメディア」の本来あるべき姿は公共の発信源としてあるべきことを伝えるというのが常であるが、報道被害・偏向報道というのが罷り通っている今、それの信憑性も揺らいでいる。さらにはインターネットの台頭により、新聞の信用低下、部数低下がさらに拍車をかけてしまった。

双方向化の潮流がやまない今、マスメディアどうあるべきなのか、どのように変わるべきなのか本書は「変革」という観点から見ている。

第Ⅰ章「マスメディアに必要な「市民の視点」」
マスメディアにとった大切なもの、
それは最新の情報や機密情報そのものではなく、「市民の視点」からその情報をいかにして伝えるべきか、というものであるという。
今や双方向化されるインターネットなどのメディアではそうでもないと考えるが、新聞は相にはいかない。とはいえ、新聞も全国紙を上げるだけでも、読売・朝日・産経・毎日・日経がある。それぞれ思想や得意分野が特化されているように思えるが、日経は経済分野で長けているからよしとして他の4紙は、思想は若干の違いがあるだけで、ほとんど記事の内容は同じである。
新聞業界が全体的に減少の一途をたどっているのはこれにも原因の一つとして挙げられる。元凶の一つには「記者クラブ」という完全閉塞的なものが機能しているからにある。この「記者クラブ」の歴史は明治維新から、約140年以上にもなる。現在民主党はこの記者クラブの開放も政策の一つとして挙げているのだが、やろうとしているのかというのがまだはっきりしていないのが現状である。

第Ⅱ章「「公共する」ジャーナリズムとは何か」
新聞やTVニュース、コラム・オピニオン誌などの雑誌は一般に「公共ジャーナリズム」と呼ばれている。簡単に言えば公共の電波や媒体を用いて私たち市民に情報を提供する立場にある人たちのことを言っている。しかしこの「公共ジャーナリズム」が時に大きな権力となり、または、最新の情報を集めるあまり惨事の加害者にもなり得る。特に後者については「公共ジャーナリズム」のなかで大きな過ちとなることが多いのだが、それらは非を正すことはほとんどない。
その象徴たる出来事の例として本章の前半ではオウム真理教(現:アーレフ)による「松本サリン事件」「地下鉄サリン事件」、そして14年前に起こった大地震「阪神・淡路大震災」が挙げられている。
後半は全国一律から離れ、地域に根差した「公共ジャーナリズム」について、NPOやNGOなどの活動などを中心に取り上げている。

第Ⅲ章「参加協同型市民社会へのパラダイムシフト」
「参加協同型市民社会」という聞き慣れない言葉が出てくる。簡単に言えば「市民が市民のための」コミュニティづくりやジャーナリズムの形成といったことを行う社会にすることである。本章では市民ボランティアにおけるマスメディア再生について、特にNPOを中心とした「開かれた」ジャーナリズムやマスメディアの有用性、さらにはそれを為し得るためにはどうあるべきか、ということについて書かれている。

第Ⅳ章「マスメディア改革に必要な「公共(する)哲学」――哲学者・金泰昌氏との対話」
ここでは「公共哲学」という学問を専門としている金泰昌氏との対談を掲載している。新聞の現状、新聞社の現状、一市民としてのマスメディアの在り方を哲学的でありながらも、社会学的な要素も含んで対談されている。取っつきにくそうに思えるのだが、私たちの身近な「社会学」も入っているため、取っつきにくさは若干マイルドな形になっている。

変化は様々な場で起こり得るものである。それは新聞などのジャーナリズム・マスメディアにおいても例外ではない。