ぼくたちの女災社会

著者の兵藤様より献本御礼。
最近、電車では「女性専用車両」が増加し、また痴漢撲滅に向けた啓発ポスターもたくさんある。当然「痴漢」はあってはならないことがあるが、それが「冤罪」になるケースも存在しており、「それでもボクはやっていない」という映画になったほどである。またこの「痴漢冤罪」を偽装し、グルになって金を巻き上げるようなケースも存在しているが、検挙率は芳しくないのが現状としてある。

そればかりではなく、ストーカーやハラスメントなど女性保護を訴えるものに関して枚挙に暇はないが、それらのことについて著者は「疑問視」をしている。

第1章「ぼくたちはいま「女災社会」を生きている」
占いでは「女難」というものがある。これは男性が女性関係のことに関して不幸が起こるということからそう呼ばれている。著者は「セクハラ」や「痴漢」など女性に関することについて「災害」としてとらえ、「女性災害」、略して「女災」と定義づけている。
女性が「ストーカー」や「痴漢」、「ハラスメント」によって訴える権利はあるが、それによる災害のことを言っている。また本章で著者は女尊男卑論者を徹底的に批判している。
本章で印象的だったのは「恋愛契約書」である。「セクハラ」や「ストーカー」を防止するために、自分と相手の女性が恋人であることを証明するものであるが、アメリカでは企業3,000社が採用されているという。しかしそれが「女災」防止への証明として広まると「文書主義」となり、「自由」とは名ばかりとなってしまうのではないかと思ってしまうのだが、「自由」にもたらされた弊害がなくなると言えばこれもまた一理なのかもしれない。

第2章「ぼくたちは「女災社会」をどう生きているのか」
本章では平均寿命など男女の健康に関してを照らし合わせながら、男性がどれだけひどい目に合っているのかということを知らしめているところである。ホームレスや自殺、過労に至るまで男性のウェイトは大きいという。
しかし本章はだから男性はひどい状況にあるのだというのには少しだけ無理がある。上記のようなことは決して女性が保護されている印象ではなく、男性のある「プライド」、例えば「一人で生きる」「無様な自分を見せたくない」「戦い抜く自分はカッコいい」というようなことも一つとして挙げられるのではないだろうかと考える。女性に対しては「草食的」であれど、労働や養うことに関してはある種「肉食的」なのかもしれない。
あと本章では強姦事件についても取り上げられているが、逆に女性が加害者になり、男性が被害者になる「逆レイプ」のようなことは現にあるのだが、それが取り上げられることはほとんどない。借りにそのようなことがあっても男性が「レイプ魔」呼ばわりにされてしまうということもあると考えると、「女尊男卑」も嘘ではないのかもしれない。

第3章「彼女たちは「女災社会」をどう生きているのか」
ではこの「女災」社会のなかで女性はどのように生きるのか。女性が求めている男性への理想が高まったこと、さらに女性の労働状況のこともあり非婚化・晩婚化・少子化のもとになっているという。さらには東大教授上野千鶴子氏が提唱する、晩年一人で迎える「おひとりさま」が増え、孤立化に拍車をかけている。
話は変わるが著者はもともとアキバ系のライターであるため、「萌え」や「ツンデレ」「やおい」のことについての言及もある。

第4章「ぼくたちはなぜ「女災社会」に生まれたのか」
「女災」がなぜ生まれたのか、本章は歴史背景も交えながら発生に至った経緯について書かれている。その一つとして「人権」が繰り返し言われるようになった。

「女災」はどれだけ広がるのかというのはまだまだ未知数と言えるが、これは男性の責任なのか、女性の責任なのか、あるいは社会の責任なのかというと答えられない。むしろすべてに責任があるという短絡的な答えに返ってしまう。では男性・女性とも「win-win」の関係を築かせることができるのか…、課題は山積しているのと同時に、男尊女卑、女尊男卑の論者がそれを妨害していることに気づかせることもまた一つの方法ともいえる。
本書は若干「男性」に偏重しすぎたように見えるが、「痴漢」や「ハラスメント」など女性にまつわる矛盾の本質をついているように思えた。