心はなぜ不自由なのか

人の「自由」と「不自由」というのはいろいろな場で実感するものである。本書では人間の中にある羞恥心、取調室や冤罪における「自由」とは何か、心理学的にみた「自由」とは何かについて、2003年9月〜2004年7月に行われた「人間学アカデミー」での講義3回を一部改変して纏めたものである。

第一回講義「取調室のなかで「私」」
最近痴漢冤罪についても取り上げられているが「取り調べ」の可視化について警察自体も動き出している。ではこれまでの「取調室」の中「不自由」について講義をしたものである。
ちなみに本書は心理学的なところから考察を行っているわけでいる。
本章では「証言」や「自白調書」における真実、もしくは強制性というのがあるのかが焦点とされている。

第二回講義「この世の中で「私」はどこまで自由か―関係の網の目を生きる「私」」
この回ではとりわけ「羞恥心」のことが中心であったが、四肢欠損をした女性が取り上げられている。「五体不満足」の乙武洋匡についても取り上げたらと思ったのだが事情が違うだけに回避したのかもしれない。
自分という生き物は他者との摩擦によって成長をするのであるが、その中で他者との関わりをおそれ、恥じてしまうという人もいる。私たちの世代は小さな頃から他者の視線や評価を気にすることになってしまい、萎縮をしてしまう。そして「私」の自由がいつの間にか埋没をしてしまっているのである。

第三回講義「「私」はどこまで自由か―さまざまな「壁」を生きる「私」」
国語辞典では「自由」の反対は「不自由」と言われている。しかし「自由」を「不自由」にさせる働きは何かと考えると「束縛」「統制」「管理」などが挙げられる。
ただしこの回の講義では精神における「自由」というよりも「身体の自由」と「心の自由」における考察についてが中心である。
上記の2つ、「身体」と「心」双方の自由が成り立つかとなると心の自由によって「身体」は統制され、「身体の自由」によって「心(自分の意志というべきか)」の自由は束縛される。両者は相反するものであり、両方を得ることは不可能である。

「自由」と「不自由」を解き明かすとなると考察の幅も広くなる。しかし広くなるあまり、解き明かすにも時間とコストがかかってしまう。更に結論もまだ出ていないところをみると「心の不自由」が解き明かされるのはまだ先の話になるのかもしれない。