ホモ・ファーベル―西欧文明における労働観の歴史

先日、厚生省で勤務時間が減少をしたというニュースがあった。景気とともに減少を続けているという。これはゆゆしきことなのか、喜ばしきことなのかというのは判断する当人の自由であるが、「平均残業時間」の統計をニュースで発表する所はどこかしらか日本らしい印象を持つ。元々西洋では「労働」について「悪」という印象を持っている。これは宗教による理由もあるが、労働はしたくもないのにやる「苦行」ということからきている(もしかしたら聖書からきているのかもしれない)。一方の日本では古事記において労働は「善」であるという見方がある。

しかし戦後になってアメリカの自由民主主義が広がりを見せてから、もしくは「ワーク・ライフ・バランス」が叫ばれるようになってからであろう。
さて本書は西洋における労働観の歴史を辿りながら考察を行っている一冊であるが、これは最近西洋の労働観を見習っている日本の現状も考察することができるかもしれない。

第1章「ギリシャ・ローマ文明における労働観」
第2章「ユダヤ文明における労働観」
第3章「ゾロアスター教における労働観」
第4章「イエスの労働観」
第5章「古代キリスト教の労働観」
第1〜16章では労働観の変遷について見ている。ちなみに労働観の変遷を大きく分けて2〜3の固まりで見ていった方が書評をやる側としてもやりやすい。
まずは1〜5章の固まりについてであるが、ここではユダヤ教、ゾロアスター教、古代キリスト教と紀元前から中世に入るところまでの労働観について探っている。古代の労働観は宗教的な要素が非常に強く、労働は人間における「原罪」を購う為の罪滅ぼし(贖罪)といわれており、どちらかというと「苦役」「悪」「罪」というような言われをしている。

第6章「中世および近世カトリックの労働観」
第7章「ルターの労働観」
第8章「カルヴァンの労働観」
第9章「近代技術及び近代経済の影響下の労働観」
第10章「ルネサンスの労働観」
中世には言ってくると「労働観」から宗教の色が薄れ始めていく。単なるネガティブな印象から労働を行わなければならない義務や宿命、奉仕や利益というところにまで至るようになった。どちらかというと「義務」や「宿命」という印象が強い。

第11章「1700年代の労働観」
第12章「19世紀哲学に見る労働観」
産業革命以降は宗教から切り離され、哲学、もしくは経済の観点から「労働観」は見られることが多くなった。経済的・文化的な発展の潤滑油のために喜びとなり、なくてはならないものという位置付けをしている。

第13章「社会主義諸学説に見る労働観」
第14章「ボリシェヴィズムにおける労働観」
第15章「ファシズムにおける労働観」
第16章「ラスキンおよびトルストイに見る労働観」
第13〜15章にかけては社会主義・共産主義における「労働観」についてである。独裁主義が強い2つについては、あくまでも義務という形での「労働」として見ている。元々資本主義社会における「貧富の差」について対抗的な立場であり、社会主義の政党の多くが「労働」を標榜する名前であることから、労働そのものはなくてはならないものという認識が強い。

第17章「労働観と近代の生命観」
資本主義において労働は生産を上げるための「駒」として見られており、「生命」を守るというものとは程遠かった。現代のように労働とともに人々の「命」を守ることを使命づけられたのは戦後になってからのことである。

第18章「労働信仰の危機」
リーマン・ショック以降、資本主義の定義が揺らぎ始めた。それと同時に「モノ」の需要から離れていったことも「生産」としての「労働」という考えができなくなってしまった。

第19章「労働の文明における労働者の精神的傾向」
労働における「闇」の部分というと「人間」としての「自分」が存在しない。むしろ「労働」という「奴隷」としての人間がいるという所である。

第20章「労働と文化」
「文化」における「労働」とは一体何なのだろうか。おそらく経済活動における「文化」の発展のことを言っている。

第21章「労働と美」
働くことでの「美しさ」、働くことで見失ってしまう「美しさ」というのがある。前者はどちらかというと「働いている人」を見ている方からの視点を言っており、後者は自ら働くことによって「働く」という主観的なものから外れ、客観的に見た「美しさ」が分からなくなるのではないかと言っている(外で働いていたらきれいな風景が見えなかったりとか)。

本書のタイトルである「ホモ・ファーベル」は「モノをつくる人」を指している。モノを作ることの「労働」は今までも、そしてこれからも絶えることはないものの、“労働”にたいする概念は時代とともに変わりつつある。本書はそれを歴史的な観点から見ている。