お役所バッシングはやめられない

日本ではTV番組に限らず、新聞や雑誌などで政府に刈らず様々な分野で「バッシング」というのが横行している。それが建設的であればやってもいいのだが、ある種メディアの自己満足や大将の首をとったような態度の用に見えて気持ち悪く感じる。私は新聞でもインターネットでニュースを観ているのだがバッシングばかりで逆に飽きられているのではと感じてしまう。

本書は役所バッシングに関しての本であるが、「バッシングリテラシー」という聞くに新しいが、バッシングが盛んに行われている日本にとってまさに学ぶべき分野の一つと言える。

第1章「こんなバッシングが役所の政策を歪めている」
本書は「お役所」、つまり霞ヶ関にいる「官僚」や地方の役所で働く公務員の人たちを痛烈に批判したことに違和感を覚えた著者が本書を出版したように思える。
様々なもの、ところで「批判」というのがあるのだが、批判の仕方によっては役所や組織を滅ぼしかねないものとなり、ひいては日本そのものを崩壊させてしまうものもある。

第2章「公務員へのバッシングも「過ぎたるは猶及ばざるが如し」」
公務員へのバッシングも過度にやりすぎると公務員たちは身を滅ぼしてしまうか、もしくは批判慣れしてしまう。マゾヒストになってしまったのではないかと錯覚してしまう。ましてや公務員バッシングだけを生業としているひともいれば、それをし続けることによって「自己満足」する人もいる。そういった人たちを「困った奴」と言われかねない。

第3章「私たちはなぜ公務員ばかりバッシングするのか――知られていないだけで、民間だってひどいですよ」
それは確かに一理ある。公務員だって首になることや深夜になるまで汗水垂らして働く人もいれば大手の企業に毎日ぐうたらしている人もいる。例えば銀行や証券会社でも、タチの悪い人はいる。その人たちに批判をしたり、改革をしようとしたりしている人もいれば、政府や公務員バッシングばかりで目もくれない、それどころか「民=善」「官=悪」というでたらめな図式で考える人もいる。

第4章「建設的なお役所バッシングへの道ーーバッシングリテラシーを身につける国民の意識改革」
感情的な批判やバッシングばかりでは、それこそ「国民は三流」という烙印が際だってしまう。「適切な批判と監視」というのが大事であるが、いかんせん新聞やTVなどのメディアは騒ぎ、国民の感情を煽りたてるようなことを仕掛ける。情報は正確にというよりも感情に棹されず、かつ自ら疑う姿勢を持たなければ、自らの感情がメディアによってコントロールされてしまう。

第5章「是々非々の改革とは、愚直で泥臭いイバラの道」
改革をしなければならない矛先は何も政府や公務員だけではない。それらをメディアを通じてみている国民の側にも改革をしなければならないものがあるのではないかと思う。本章では公務員に対する監視の在り方について書かれており、批判すべき所は批判しながらも、一生懸命やっている公務員に対しては称賛すべきというスタンスを取っている。さらには民間企業では広がりを見せている「副業」も解禁して見てはという意見もある。

バッシングにも、というより「バッシングにこそ」リテラシーはあるべきではないかと本書を読んでつくづく思う。メディアの煽動にのまれ、感情的にあれこれ批判ばかりしてしまうようなことにならず、静観しながらも、自らの視点を大事にして物事を見据えていく大切さ、それを知った一冊である。