牛丼を変えたコメ―北海道「きらら397」の挑戦

私は生まれも育ちも北海道である。そのためか北海道にまつわる物を見るととたんに懐かしさがでてくる。話は変わって北海道米と呼ばれるブランド米は本書で紹介する「きらら397」「ほしのゆめ」「ゆきひかり」などが挙げられる。コメの生産日本一を誇る新潟県ほどではないが、生産高は都道府県別で全国2位と全国有数の生産高を誇る(平成21年現在 お米の受給情報データベースより)
しかし、その北海道も昔は「やっかいどう米」「カラスですら見向きもしないコメ」として扱われてきた。そこから北海道の農業の技術者たちはどのようにしてブランド米にさせたのか、本書はその一部始終を追っている。

第一章「外食産業の主役となった北海道のコメ」
北海道米の特徴として味の質は人気ブランドである新潟のコシヒカリに比べても味は大差ないにもかかわらず、60キロあたり1万2000円前後と比較的安価であることが特徴である(ちなみに新潟のコシヒカリは1万5000円前後)。そこに目を付けたのが吉野家をはじめとした牛丼を中心とした食品業界である。今となってはすき家や吉野家の価格競争の争いが激化しているだけではなく、牛肉に目がいきがちであるが、激安競争が可能になった大きな要因には北海道米の活躍があってのことであるという。

第二章「北海道にコメは向かない」
北海道の気候は夏は涼しく、冬は雪が積もるといった米作りにはあまり適していない環境にあった。現に明治時代の初期にはコメづくりは不可能としており、代わりに小麦の栽培を推進していた。しかしその環境下でもコメ作りが行えるかについて、研究が中山久蔵を中心に行われた。明治4年の話である。

第三章「コメが北を目指した一世紀」
「北海道がコメ作りに適さない」と呼ばれてから100年経たずに、コメ生産高日本一となった。昭和36年のことである。躍進を続ける北海道米はここにきて急激な打撃を受けることになる。「減反」と「品質」である。
「減反」は当時、全国的に生産高を増やし続けてきたが、政府の備蓄も限界となり、貯蔵庫にはカビが生えたコメも出始めた。そのため生産高を押さえるため政府主導で「減反」を行った。
「品質」はというと、生産量をのばしていく犠牲として「品種改良」を疎かにしてしまった。そのため「どす黒い」コメとして扱われ、他のブランド米とブレンドとして食されるか、政府米となるしかなかった。
品質を疎かにしてしまったのにはもう一つ理由がある。前章でコメを作るような環境に無かったので「耐冷性」のコメを生産する事が至上命題であったためである。
昭和50年になってようやく品質向上の為のガイドラインをまとめたが、二律背反と呼ばれるような挑戦であったという。

第四章「北限を越えたニッポンのうまいコメ」
品質改良の挑戦は険しい道のりであった。まず寒さに耐えるコメづくりから「おいしい」コメ作りの環境にシフトをしていく必要があった。昭和55年に品質に特化したコメが開発された(「しまひかり」と呼ばれる)ものの、致命的な弱点があった。冷害に弱いことである。現に昭和56・58年は冷害の年であったといわれており、作況指数も良くなかった。
その弱点を補うためしまひかりに様々なコメを交配させていった。それが後に「きらら397」の原点となる品種が生まれ、改良を重ねていった。

第五章「コメ育種の最新技術を見にゆく」
「きらら397」として世に出回ったのは1989年、忽ちブランド米として確立され、これまで悪評しかなかった北海道米の固定観念が覆された。
それから15年、現在では最先端技術を使って最先端のコメを開発をしているという。本章ではその現場を直接取材したものをまとめている。
本章ではもっぱら「遺伝子組み替え」のコメが中心であったが、本章を読むうちにふとした疑問を思った。コメに限らず大豆などの食品に「遺伝子組み替え○○は使用しておりません」という表記がある。実際に遺伝子組み替えはやってはいけないことなのだろうか、人間にとって害するような物なのかという実例が存在しない。なぜ「遺伝子組み替え」に対してメディアや食品業者は忌避するのだろうか。

北海道出身ということで地元のブランド米がどのように作られていったのか。それについて興味が沸いたため本書を手に取った。あまり知られていなかった北海道におけるコメ作りの歴史を見ることができただけではなく、「やっかいどう米」からどのようにしてブランド米を確立させていったのかを知ることができる格好の一冊である。