明治維新 1858-1881

本書の副題に「1858〜1881」とあるが明治維新が果たされたのは1867年、江戸幕府十五代将軍の徳川慶喜が京(現在の京都)に赴き、政権をすべて朝廷に委譲すると申し出たことである(大政奉還)。1858年は「日米修好通商条約」が締結された年であり、実質的に「鎖国」が解消された。

そこから「幕末」と呼ばれる激動の時代に突入し、薩摩藩や長州藩、土佐藩など中心に幕府の時代から明治の時代に変わっていった。本書は明治維新がなぜ成功したのか、そして明治維新にかかわった人物、幕藩、社会構造などの角度から分析を行っている。

第一部「明治維新の柔構造」
「明治維新」は「武士」の革命と言われているが、その主軸となったのは西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、板垣退助の四人である。実際には他にも多数おり、本章でも島津斉彬や佐久間象山、吉田松陰をはじめ55人の指導者を取り上げている。ここでは幕末と言うよりも明治維新が起った後から近代国家がどのようにして作り上げていったのか、国家目標がそれぞれ異なる4人をフォーカスしている。
それぞれ見ていくと、

西郷隆盛…「外征」、主に遣韓論(本書では「征韓論」と書かれているが、ここでは遣韓論と通す。理由は後述)
大久保利通…「殖産興業」、産業革命のような工業立国を目指す
木戸孝允…「憲法制定」
板垣退助…「議会設立」

と、それぞれ異なる。皮肉なことに志半ばで「西南戦争」に巻き込まれ、板垣を除いて命を落とした。

※遣韓論…韓国に宣戦布告をして、武力でもって朝鮮半島を開国するのとは違い、使節として自ら朝鮮に行き、説得を試みると言うものである。しかしこの「遣韓論」は一部論者にしか支持されていないが、当時の征韓論者同士の対立もあったため、当ブログでは「遣韓論」とした。

第二部「改革諸藩を比較する」
改革諸藩は冒頭で取り上げた薩摩、長州、土佐の他に肥前藩や越前藩とも比較を行っている。なぜ肥前と越前を加えたのか、それは長州や薩摩が幕末にかけて勢いを強め、逆に肥前と越前は勢力を失っていったということから構造の違いがあるのではないかという仮説をたてたからである。
では勢力を失った肥前や越前は柔構造がないのかという考えになるが、必ずしもそうではなかったものの財源的な圧迫から強兵や政権の安定に後れをとってしまったことがネックになった。

第三部「江戸社会―飛躍への準備」
本書の主軸にあるのは「柔構造」という言葉である。この「柔構造」はいったいどのように定義づけられるのか。明治維新前後の時代は権力者や指導者といった主要な人物が多く、さらに政策や政治における闘争(武力によるものも含む)が多かったため、権力の所在、目標などめまぐるしく変化をする時代であった。そのため目標設定などもこまめに変わる必要があった。そんな時代に対して様々な角度から柔軟に対応できる構造ということで「柔構造」と著者は定義している。
江戸時代は鎖国の中にあったため、近代化をはかるにしてもほど遠い状況にあった。しかしある程度の下準備はあったのだと著者は指摘する。本章ではいくつか取り上げているが、一部列挙をすると、

・政治的統一と安定
・手工場の発展
・地方政府(藩)による産業振興

がある。本書では政治的なものを挙げると幕府を中心とした政治があるとすると「政治的統一と安定」に直結する。諸藩による政治は「地方政府」に直結する。大政奉還や版籍奉還が行われ、政治形態の根幹が決まった背景には江戸時代における政治形態の名残が大きい。

明治維新は激動の時代であったが、欧米列強の政治や経済の体系を鎖国化にあった江戸時代で醸成されたそれとうまくすり合わせながら近代国家を作り上げていった。その中で藩や人物の「柔構造」が大きな要因であったという。「混沌」と呼ばれる時代だからでこそ、柔構造を持つ人が必要だった。これは明治維新に限らず、経済・政治的に混沌化している現在でも言えることではないだろうか。