はじめての政治哲学――「正しさ」をめぐる23の問い

ふだんの生活の中で「政治哲学」はあまりピンとこないかもしれない。しかし今日の政治では、この「政治哲学」は存在する。政党の根幹、理想がそれにあたる。

重要であることはわかったが「政治哲学」は理論的なものが多く取っつきにくいという人もいるかもしれない。そこで本書である。本書は「政治哲学」のイロハを「23の問い」という形で表している。

第1章「自由をめぐる論争」
今この話題を出すのはあまりよろしくないかもしれないが、東日本大震災では著名人を始め多くの人が義援金やボランティアなど何らかの形で支援を行っている。なにがいいたいのかというと「功利主義」のあり方である。自らを犠牲にして他人に対して利益を与える、「利他主義」ということをいっているのだが、これは道徳の範疇に入るかどうかというところを「哲学」「倫理学」の観点から見ている。ちなみに最初に取り上げた地震でのボランティアや義援金といったものは「功利主義」や「利他主義」の範疇としても挙げられる。
他にも人工妊娠中絶など「宗教」と「倫理」双方で論争の起こっている事柄についても取り上げている。

第2章「民主主義をめぐる論争」
政治家のあり方、議論の有用性について考察を行っているのだが、ここで連想するのは鹿児島県阿久根市の「専任決議」問題がとっさに出てくる。
「市長の独裁」と痛烈な批判を浴びたものだが、選挙に落選した竹原前市長は、後に某インタビューにて議会のあり方について疑問持ったのだという。議会が一種の「通過儀礼」という形に化してしまい、事実上の「出来レース」となってしまった。政治を変えるにはこのままではいけない、と竹原氏はその思いが募り、「専任決議」をしたという。方法論はまずかったとはいえ、阿久根市のみならず日本、地方共々の「議会」の在り方について考えさせられるような事件であったことは間違いない。
「話し合い」「議論」が主となっている今日の「民主主義」。そのあり方は本当に正しいのかということを今となっては考えさせられる。
そのことを考えると、本章で取り上げられていることはまさに「旬」と言える。

第3章「差異と平等をめぐる論争」
「平等論」や「差別」というのは今も昔もある。日本では「(所得や経済などの)格差」や「同和」「昔の身分」などの差別問題がある。差別をなくせという論者もいるのだが、人間は動物である。動物である以上何らかの形で「差」がある。それ故「差別」というのは自然と起こるものである。
ただ、本章を読んでいて少し思ったのが「宗教対立」や「民族対立」は日本では起こっていないと言うところがある。中東諸国では戦争や紛争にまでなるほどであるのにもかかわらず、である。本章では「マイノリティ」や「共存」といった概念が萌芽しているのではないかという。

第4章「共同体をめぐる論争」
「日本人とは何か」
本章では国家を含め、「日本」のことについて「共同体」を中心に論じている。
「共同体」を考えていくと最近では「核家族化」、「晩婚化」「離婚件数の増加」によってコミュニティが希薄になっているのではと言われている。

第5章「対立をめぐる論争」
国家にしても、個人にしても必ずと言ってもいいほど「対立」というのはある。本章ではその「対立」から起こる戦争の正当性、他国に手をさしのべる「グローバル主義」に関して考察を行っている。

本書を読んでいくと、政治哲学は決して「学術」の範疇に収まることはないと実感してしまう。政治哲学は入り口こそニュースにある事柄を引き合いに出すことができるため、おもしろさはある。しかしだんだんと見ていくうちに奥が深い、そういうような学問だなと本書を読んで思った。他の学問も同じだと言う意見もあるようだが、政治哲学はそれをなおさらだ、と私は思う。