殺して忘れる社会―ゼロ年代「高度情報化」のジレンマ

インターネットなど情報技術の高度化が著しい。情報もこれまでとは大きく変貌している。
本書のタイトルの「殺す」は情報社会の中で人格が「無視」されること、「否定」されることを指している。決して拳銃やナイフで直接殺めると言うことではない。

「ペンは剣より強し」という言葉があるのだが、情報の中ではまさに「ペン」以上の強さをもっている。たった一言で人格を殺してしまうと、急速な勢いで周囲にその情報が拡散されてしまうからである。

本書はネットが急速に成長している時代の中でのメディアや社会について綴っている。:

第1章「ネットのルールと街の掟」
ここ最近になって「コミュニティの希薄化」と言った言葉が飛び出すようになった。しかしそれはリアル、現実の場にて行われているだけであって、ネット上ではmixiなどSNSを介したバーチャルのコミュニティも増加していると言う声もある。
「リアル」と「バーチャル」違いがあるとは言えど「コミュニティ」が作られていると言うところでは共通点がある。
もっと言うと今回の震災では「twitter」や「mixi」といった「バーチャル」のコミュニティが大いに役立っている。安否情報はもちろんのこと、救援物資や義援金などが集まったのもそれが一助となった。

第2章「マスメディアの没落、ジャーナリズムの黄昏」
震災の中、民間とNHKと言ったTVを媒介としたマスメディアの対応について評価が分かれた。震災が起こる前は批判の的となっていたNHKでは安否情報を中心に放送を続けていたことにより評価があがった。反対に民放ではしきりに惨状を伝えるだけではなく、政府や東電批判ばかりに集中してしまい、非難の声がますます強まっていった。
この震災で「ジャーナリズムとは何か?」と言うことを考えさせられた。

第3章「多様化せず、格差化する社会」
このごろ「格差」という言葉をよく聞く。主に「所得格差」のことを「格差」と指すようである。
「格差は悪なのか?」
と言う問いもあるが、それは政治的にも党によって分かれている。イデオロギー自体がそもそも違っている為それは致し方ない。
しかし「格差」に関して疑問に思ったのが、なぜ最近になって叫ばれたのか、バブルや高度経済成長の時にも「格差」はあったのにも関わらず、叫ばれなかった理由は何か。おそらく「心」にあるのかもしれない。

第4章「リスク社会を生きる」
リスクはどのような状況でもつきものである。しかし日本人は「リスク」に対して激しく忌避しており、「安全」や「安心」と言う言葉に対して極端にすがりつく。
高度経済成長、そしてバブルにかけて、ニュータウンやインフラの開発が進んでいるが、急速な発展により「大地震」などのリスクを被ってしまった。16年前の阪神淡路大震災がそれに当たる。

第5章「新たな「核論」のために」
「核」と言うと、「核兵器」のことを連想してしまうのだが、本章では「原子力」についての議論を行っている。現在では福島第一原発の事故がしきりに取り上げられている。アメリカで起こった「スリーマイル原発事故」を凌ぐほどの規模であることから、日本の原発神話が失墜した、と言う声もある。
おそらく「反原発」や「脱原発」の声が大きくなってくるのだが、「原子力」を一度に廃止することは、原子力発電を凌ぐほどの発電量で、かつ危険性の少ない発明技術が誕生し、発展しない限り不可能である。
「原子力」安全神話は崩れてしまっているが、その原子力のリスクを私たちはどこまで受け入れられるのか、試されているのかもしれない。

第6章「テクノロジーに飼い慣らされないために」
エジソンの言葉にこういう言葉がある。

「機械は生活を便利にした、将来はもっと便利になるだろう。しかし、用心しなくては人間が機械に使われるようになってしまう。」

今し方、携帯電話やパソコンを始め様々なものが進化している。私たちはそれを飼い慣らす立場にいるのだが、あまりの進化のし過ぎように私たちが逆に隷属してしまうこともある。
ガジェットを使いこなしている私も自戒しなければならない章である。

本書は2000年代の批判と反省を込めた一冊であるが、当時の状況と現在の状況では大きく変わっている、というよりも2000年代とは何か、と言うよりも2000年代の遺産が現在どうであるか、と言うのを考えさせられたような気がする。

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