郊外の社会学―現代を生きる形

「郊外」というと新たに建てられた家々を想像する。「団地」や「ニュータウン」、「新興住宅地」など高度経済成長とともに、日本経済の象徴の一つとして挙げられる、と同時に「ハコモノ行政の温床」という負の側面も持っている。

本書は高度経済成長の象徴である「郊外」の住宅地の光と闇を見つめながら社会はどのように変わっていったのかについて考察を行っている。

第一章「虚構のような街」
郊外に建てられた住宅はかつてあった日本のそれとは違い、近代的で、かつ西洋の風をふんだんに取り入れており、古来ある日本のものを否定されているようなつくりである。しかし最近になってニュータウンで建設された住宅が「欠陥住宅」となり、住民の幸せを奪っているという皮肉な現象も起こっている。

第二章「この立場なき場所」
「郊外」の住宅地というと皆様はどこを思い浮かべるだろうか。東京でいうと「多摩」「田園調布」などがあり、千葉では「千葉ニュータウン」などが挙げられる。
西洋風の佇まいで、かつ高級感はあるのだが、その中での「コミュニティ」や「地域連携」といった概念が薄れている証拠としても挙げられる。
事件からいじめ、引きこもりといったことは郊外に住宅地ができた時から表面化されたという。郊外に住宅地が建てられる以前、つまり高度経済成長が起こる以前はどうだったのか、というのが気になるが。

第三章「郊外を縦断する」
本章では「つくばエキスプレス」を乗りながら千葉・茨城の「郊外」を縦断しながら、最近つくられた「郊外」の現実について迫っている。
「つくばエキスプレス」が開通したのは2005年。「失われた10年」から脱し、景気が上向きになり始めた時である。

第四章「住むことの神話と現実」
「郊外に住む」ということはいったい何を意味するのだろうか。元々高度経済成長期以降、サラリーマンとして生きる道を挙げてみると、

就職 → 結婚 → 子供誕生 → 一軒家購入 → 定年

と、多少差異はあるものの、おおよそはこのように人生は進む。郊外に限らないものの「一軒家を買う」というのは人生においてもっとも大きな買い物の一つとしてとらえられている。その一軒家を建てられる場所として、「郊外」に白羽の矢を立てたという形である。
本章では郊外に家を立てる「文化」の在り方について考察を行いつつ、第二章で述べた「コミュニティ」の希薄化について考察を行っている。

第五章「演技する「ハコ」」
別に家そのものが勝手に踊っている訳ではない。
簡単にいうと自宅で楽しむガーデニングやモニュメント、さらにはクリスマスツリーから門松に至るまでのオブジェを飾るということで「演技をする」という形でとらえられている。
他にも郊外そのものの風景もあたかもそこに住む人々が「俳優」や「女優」になることができる、という意味合いからも「演技する」ととらえられる。
本章では郊外の住宅地そのものの意味について追っている。

高度経済成長の象徴、もしくは良くも悪くも近代日本住宅の象徴としていわれる郊外の住宅地。そこには政治や経済では言い表すことのできない、近代日本人の「縮図」がそこにあると、本章を読んでそう思えてならなかった。