メディアと日本人――変わりゆく日常

最近「メディア批判」が盛んに行われている。しかし日本人はメディアとはどのように付き合っているのだろうか、と角度を変えて考えてもみたくなる。最近ではウェブの隆盛により、新聞やテレビから「ネット」とニュースをみる手段が増える、またはシフトしている印象が強い。

日本人はメディアとどのように「付き合っていったのか」、そしてその付き合い方がどのように変容していったか、というのを考察したのが本書である。

1章「日本人はメディアをどう受け入れてきたか」
「日本人とメディア」
その歴史は江戸時代に遡る。当時は「瓦版」がニュースとして世に流布されており、数少ない情報源の一つとして扱われていた。ただ、ほかにもキリシタン版の「西洋式活版」も室町から安土桃山時代には伝来して、浸透していったが、キリシタンへの弾圧により薄れていった。
開国をしてからは活字印刷もめまぐるしい速さで取り入れられ、やがて新聞が一大メディアとなった。やがてラジオ・テレビが浸透し、インターネットが浸透し、情報を得るメディアも増えていった。

2章「メディアの利用実態はどう変わってきたか」
では、日本人のメディア利用はどのように変わっていったのだろうか。
インターネットの浸透もあり、私たちの世代の「新聞離れ」や「テレビ離れ」といわれている。しかし本章ではそもそも新聞にしても、テレビにしても全体的に離れている傾向にあることがわかる。
また本章ではほかにも「活字離れ」「書籍離れ」は果たして本当なのか、についても統計的な検証を行っている。

3章「メディアの「悪影響」を考える」
確か小学生の時に聞いた話であるがTVを2時間以上見るのはいけないのだという。というのはTVを見すぎることによって思考力が落ちるのが理由だという。
しかし本書ではこれを始め、TVやゲーム、インターネットにより少年犯罪が起因しているかどうかも検証している。ただし、新書なのであくまで「さわり」の範囲でしか検証は難しい。より詳しいものだと「ゲームと犯罪と子どもたち ――ハーバード大学医学部の大規模調査より」がある。
インターネットの普及によって世論の傾向も極化していると本章にて指摘している。「リスキーシフト」や「フレーミング(炎上)」が大きな要因としてあげられるが、私の持つ印象として見ると、「リスキーシフト」はコミュニケーション論の中でよく使われる用語であるため、インターネットもコミュニケーションの手段として担っている、というのがよくわかる。

4章「ネット時代のメンタリティー」
インターネットの浸透により人間関係が希薄化したか、といわれると、確かにそうかもしれないが、希薄化した要因は別にインターネットのせいばかりではない。むしろインターネットでは不特定多数の人にどう見られているか気になってしまう。ブログを投稿している私にも同じような感触を持っている。
もう一つ挙げられるのが「政治意識」である。TVや新聞では「受信」でしか情報を享受する手段はなかったのだが、最近では、自分の意見を発信する、あるいは一般紙ではふれることの出来ない情報も受け取ることができるという利点から政治に関する関心は、ありとあらゆる情報が手に入ったことによって関心が薄れてしまったのではないか、とも見て取れる。

「メディアが悪い」というのは誰でも言うことができる。しかしどのように悪いのか、あるいはどのように付き合っていけばよいのか、その傾向を知り、自分はどのようにメディアと付き合って行けば良いのかの道標を考える糧となる一冊であった。