佐藤さんはなぜいっぱいいるのか? 身近な疑問から解き明かす「商標」入門

水野俊哉様より献本御礼。
世の中には様々なブランドがある。その中にはまねや類似のできない「商標」として扱われているものもある。「商標」とはいったい何なのか。調べてみると、

「商品を購入し、あるいは役務(サービス)の提供を受ける需要者が、その商品や役務の出所(誰が提供しているか)を認識可能とするために使用される標識」wikipedia より)

となる。
本書のタイトルはかなりインパクトはあるが、世の中に蔓延る「類似」や「マネ」は合法か違法かと言うのもよくわかる一冊である。

第1章「佐藤さんはなぜいっぱいいるのか?」
日本で最も多い名字を挙げてみると「佐藤」「鈴木」「高橋」・・・という順番となる。では前述に挙がっている名字がなぜ多いのだろうか。本章では「佐藤」の名字の由来からなぜ増えていったのかについては記載されている。タイトルで挙げているため、そうせざるを得ない背景もあるのだが。
平安時代〜江戸時代の中で同じ名字が増えた理由はあるのだが、最初に挙げた名字は大正時代以降首相なった名字でもある。「佐藤栄作」「鈴木善幸」、そして「高橋是清」のことをいう。

第2章「ラーメン戦争」
本章ではその代表として「大勝軒」を取り上げられている。私の自宅近くにも最近できているため妙に親近感がわく。「ラーメン戦争」は別に「大勝軒」ばかりではなく、「青葉」も挙げられるのではないかとふと思った。私にとって「青葉」というと旭川ラーメンの代表店であり、旭川に帰ると無性に食べたくなる。本店ではないが実際に何度か言ったことがある。しかし同じ「青葉」でも東京の中野にも本店がある店がある。これは最近カップラーメンになったことでも有名である。
それはさておき、本章では実際に商標として取り上げられ名「慣例商標」を取り上げている。「商標」と一括りでまとめることが難しい。というのは「商標権」を訴えても通じるものと、通じないものがある。後者がまさに「慣例商標」と言われる所である。

第3章「あなたの「目印」似てますよ!」
「目印が似ている」というケースも数多く存在する。
本書では「本当にあった〜」や「王将」、「スマイルマーク」などが挙げられる。

第4章「スターバックスとエクセルシオール、コーヒー勝負」
私の中では最も馴染みのあるカフェチェーンの店についてである。もっとも有名なもので言うと本章で取り上げられているもののほかに、「ドトール」「タリーズ」、首都圏だけではあるが「ルノアール」や「ベローチェ」などが挙げられる。
本章では商標権を巡る「スターバックス」と「エクセルシオール」の仁義なき戦いの顛末を述べている。

第5章「獣対決とライン対決」
「獣」と言えば「PUMA」、「ライン」と言えば「アディダス」と言えば想像に難くない。
双方の共通点はいくつかある。たとえばどちらもスポーツ用品を取り扱っている。しかし本章ではそこではなく「パロディ品が多い」という共通点について着目している。
「PUMA」については取り上げられているので割愛するが、「アディダス」でもラインのみならずアジの形で「AJIDAS」、線が炎となった「KAJIDAS」などが挙げられる。本章ではそれによるブランドイメージの希薄化について警鐘を鳴らしている。
・・・しかしPUMAの話題ではあんなに騒いでいるものもあればこれは堂々と新千歳空港などで売られているにも関わらず、PUMAの関係者はなぜ目くじらをたてない、もしくは訴えないのが不思議である。

第6章「有名になるための死闘」
「商標」を取るためには日本では特許庁に申請する必要がある。それを取るだけでも一苦労であるが、「死闘」と言われているのはそれだけではない。前章にあるようなパロディ化を防止するためにそれに類似するものについても商標登録しているという。本章ではそのエピソードについて述べている。
余談であるが戦前は落語家として、戦後は喜劇俳優として活躍した柳家金語楼という人物がいた。あまりにも売れすぎたため、自分の名前どころか自分の顔(バーコード頭でも有名だった)にまで商標登録したのは有名である。有名になるためにはここまでしていた執念がこの芸能界にもあったことが窺える。

第7章「商標・目印の応用編」
「商標」というと企業の特許にまつわることか、と敬遠してしまうのだが、別に企業だけの専売特許ではなく、パーソナル・ブランディングとしての確立としての「商標登録」も可能である。その代表格として本書に挙げているのが「5959の日」である。

実はこのタイトルも山田真哉氏の「さおだけ屋はなぜ潰れないのか?」を参考にしているという。「パクリ」ではないかと言われそうだが、著者は「目のつけどころ」が違うと明確化している。最近はタイトルなどベストセラーにあやかるものが多いのでそれも「商標権」にならないだろうか、とふと思ってしまう。