熟慮ジャーナリズム ― 「論壇記者」の体験から

記者は記者でも様々な記者がいる。たとえば「政治記者」や「警察記者」などがいるのだが、以外にも知られていないのが「論壇記者」というものが挙げられる。では「論壇記者」とはどのような存在か、というと「社説」などを書く人達のことを挙げると容易に想像できるだろう。本書は普段私たちが想像する「新聞記者」とは一線を画す、「論壇記者」の存在とその仕事の中身について明かしている。

第一章「「でもしか記者」の記」
「でもしか」と言う言葉は以前どこかで聞いたことがあるような言葉であるが、広辞苑にも載っている言葉である。調べてみると、

[接頭]《「…にでもなろうか」「…にしかなれない」の意から》ほかになるものがないので、やむをえずそれになっているという意を表す。でも。「―先生」goo辞書より)

本章では戦後間もない頃の学生時代での大学紛争や全共闘、安保闘争などエピソードをから、新聞社入社当時の著者がどうであったか、というと様々な場面に遭遇することもあったが、タイトルにあるような「でもしか」が多かったという。

第二章「「論壇記者」以前」
論壇記者以前のことについて書かれているが、最も印象深かったのが「書評」である。著者は毎日新聞に勤め、しかも書評欄担当をしていることを考えると丸谷才一氏を連想してしまう。しかし本章で取り上げられている書評委員には様々な人物が挙げられており、中には私の知らない作家の方も数多くいた。
後半には「論壇記者」となる前段となる「論壇時評」の構成エピソードについて綴られている。

第三章「論壇記者的日常」
「論壇記者」となった時のエピソードであるが、主に昭和末期〜平成に入ってからのことである。もっとも、本章では昭和天皇崩御から平成までの論壇について賛否両論が起こったエピソードについてが中心であり、個人的な見解も記されている。

第四章「「熟慮ジャーナリズム」へ」
やがて新聞社を退職し、大学教授となった著者は「ジャーナリズムとは何か」「新聞とは何か」を教える立場となった。その中で「批判」や「速報」といった速さと足の引っ張り合いという様な報道が多いことに著者は警鐘をならしつつ、読者にも、さらには新聞をつくる記者、ひいてはメディアを発信する方々にたいして「熟慮」をする重要性を説いている。

昨今では「スピード」が求められている今だからでこそ「熟慮」の重要性が増しているのかもしれない。もっともメディアは「速報性」や「トレンド」ばかりを追いかけてしまい、肝心となる「深さ」が欠如しているようにも見える。これは新聞のみならずメディアを持っている人たち全員に言えることであり、これからの課題と言える。