象の背中で焚火をすれば

「地震」と「原子力」

今年はこの2つの単語が頭から離れられないと言っても過言ではない。3月11日に起こった「東日本大震災」は東北どころか日本全体にとっても大惨事と言える。そこから復興をしている矢先に台風12・15号が日本を直撃し、復興の道のりが遠のいている印象にある。
本書は阪神淡路大震災をはじめとした地震、原子力、そして政治を風刺したエッセイ集である。

<像の背中で焚火をすれば>.
1995年1月17日に起こった「阪神淡路大震災」とその後の金融大恐慌についての風刺である。阪神淡路大震災が起こってもう16年半経ちほとんど復興しているのだが、まだまだ爪痕が残っているところも残っている。16年経ち、別の所でまた新たな大地震が起こったという報せを聴いたとき、16年前の被災者は何を思ったのだろうか。

<二番目の陽もまた沈む>
原子力のことについてであるが、「陽はまた沈む」は1990年、当時ロンドン・エコノミストの編集長であったビル・エモット氏が日本経済の未来についてを予測し、ベストセラーになるばかりではなく、その通りとなってしまった。その後2005年に「陽はまた昇る」を上梓されたが予想通りになったのかは謎である。
原子力の話に戻す。原子量発電が始まったのは1963年10月26日に茨城県東海村にて実験炉にて原子力でもって発電に成功したことにある。そして1966年の「東海発電所」にて初めて「原子力発電所」が誕生した。その後北海道から鹿児島に至るまで全国各地にて原子力発電所が建設された。現在稼働している発電所のほとんどは70年代に着工が決められ、80年代あたりに稼働が開始したものである。その後スリーマイル島原子力事故やチェルノブイリなどをきっかけに「原発反対」や「脱原発」、さらには原発リスクの関心が高まった(ただし、伊方原発や浪江・小高原発のように70年代以前にも原発反対のデモは起こっていた)。

<自分の墓穴を掘る人々>
本章では政治家や有識者の批判が羅列されているが、もしかしたら著者自身「自戒」をこめて、あえて書いているというようにも捉えられる。
現在の政治は混迷を極めており、ましてやメディアが行う揚げ足取りによってそれを増長させているのも事実である。そういう時代だからでこそ低い支持率でも信念を持ち続けられる剛胆で辛抱強い政治家が必要であるが、現状からしてその政治家も生まれさせない。たとえ生まれようとしたらメディアや有識者が出る杭を打ち、社会的に抹殺する。
ましてや国民も国民で、様々な愚考や愚行を平然と放映し続けているのだという。
「経済は一流、政治は二流、国民は三流」と言われているように。

<開かれたパンドラの箱>
人間は「善」なのか「悪」なのか、という哲学・宗教に関する批判について綴っている。
おそらく著者の主張と私の考えはほぼ正反対である。代表的なものとしてPKOとPKFの自衛隊派遣について、私は賛成であるが著者は反対している。私は後方支援であれ人道支援であれ、国際貢献をする必要が国連の一員であること、さらには自衛隊の存在意義として軍隊ではないものの様々な形の支援を行うことができるという観点で賛成である。これに対し著者は派遣先の「歴史」を知らないで安易に派遣していることに怒りを表している。「タマゴが先か、ニワトリが先か」という不毛な議論になってしまうのでここまでにしておく。

東日本大震災から半年、原発への思いから編纂して出版された訳であるが、一昔前のものをそのまま引っ張りだして出しましたという印象が強く、言葉は悪いかもしれないが「お粗末」と呼んでもおかしくない一冊であった。現在のことのエッセイについても取り上げていただければ、もう少し違ったものとして見ることができた、という思いもあった。