日本語へんてこてん―古典でわかる!日本語のモンダイ

「今の日本語は乱れている」

これは今に始まったことではない。戦前の時にも同様の議論はされてきている。
しかし著者はそのような議論の中で決定的にかけているものがあるという。それは「古典の側からの考察」がないのだという。確かに古典で出てくる言葉と今の流行語とを見比べてどのようなものが見えるのだろうか。本書ではその日本語の進化と原点とを見比べながら、日本語の難しさと面白さを見出している。

第1章「人気語の意味は増幅する」
「やばい」や「やっぱ」「チョー」という言葉の考察である。
「やばい」という言葉は私たちの世代で流行していると言われているが、画家の岡本太郎もジミー大西の絵を初めて見て、

「描く紙が四角いことにとらわれている。キャンバスは大地。大地はもっとヤバい」

という感想を綴っている。感性で彩る画家に対してなぜ「ヤバい」のか、と聞くほど野暮なものはないのだが、その「やばい」という言葉も、元々十返舎一九の「東海道中膝栗毛」から「やばな~(けしからん)」という言葉が起源と言われているが、そこから派生して「いみじ」や「ゆかし」という言葉の意味にも発展している。言葉の意味の広がりが流行語ばかりではなく、古語でも同様に見えている。

第2章「日本語は副詞国家だ」
「福祉国家」をもじって「「副詞」国家」としているところが面白い。国語や英語の授業で「副詞」の概要は聞いたことがあるが、念のためここでも説明しておく。副詞とは、
「自立語で活用がなく、主語・述語になることのない語のうち、主として連用修飾語として用いられるもの。「非常に」「大変」「全然」などの類。」(「三省堂 大辞林」より)
のことをいう。その「副詞」の流行語も少なくなく「なかなか」や「全然」がある。本章ではその言葉を中心に紹介している。
前者は最近放送されていないがヨネスケの「突撃!隣の晩ごはん」で時々「なかなかですねぇ~」ということがある。もしかしたら「なかなか」はそこからきたのだろうか。
戯れ言はここまでにしておいて、「なかなか」の他に「全然」「正直」「逆に」など様々な副詞が乱舞しているのも私たちの世代で語られる日本語にある。本章では様々な副詞の語源を紹介している。

第3章「あいまいなウチワの私」
暑くなりだしたので、そろそろウチワがほしい季節であるー
・・・と間違えた。「ウチワ」とは言っても自分の周り、もしくは仲間の間でつかう「内輪」な日本語のことを言っている。どのようなことなのか、というと「ありえない」や「~っぽい」「萌え」「みたいな」などが挙げられる。しかし私たちの世代はそういった内輪と仲間内ではない、いわゆる「外輪」と呼ばれる会話の分別がつかず、内輪の会話を外でも行ってしまうことにより、「日本語が乱れている」や「今の若いものは日本語がなっていない」というようなことになってしまっているのだろう。

第4章「やっぱり日本語に主語はいらない」
「主語がないよ」
と他人に言われた覚えがある人もいるだろう。私もよく会話するときにそのことについて注意を受ける。
しかし主語抜きで話すことができるのも日本語の特色の一つとも言える。本章でもその「主語抜き」の文章など古典をもとに紹介している。

第5章「微妙な使い分け」
「ありのまま」と「あるがまま」
「言うな」と「言いな」
「ありがたさ」と「ありがたみ」
という使い分けが難しいものがある。それぞれどのように使う必要があるのかを解説している。

第6章「こんなに生きてる現役古典語」
古典語というと、今の日本語の語源でありながら俗世離れしたような感があり使いづらいように思えてしまう。しかし「~ならでは」や「行きつ戻りつ」など、よく使われる言葉も古典語からきているものもあるのだという。

「言葉は偉大である」と誰かが言っている。それをもじって「日本語は偉大である」とも言える。「日本語が乱れている」と言われているが、むしろ様々な形で「進化」をしているとも言える。その「進化」は社会現象や作品、あるいは古典からきているものもある。日本語は時代とともに進化する。その進化のとらえ方は世代どころか人それぞれ異なる。これまでも、そしてこれからも。