闘電―電気に挑んだ男たち

昨年の3月の東日本大震災により福島第一原発事故とスリーマイルやチェルノブイリ以来の大事故が起こった。そのことにより原発に対する嫌悪が一気に高まり「脱原発」があちこちと叫ばれている。その弊害もあってか電力会社に対する「差別」も起こっている現実もある。
その電力の供給を受けている私たちはその恩恵に感謝どころか、むしろ蔑視している風潮に思えてならない。確かに電力会社による罪は大きいが、それよりもそもそも電力ができたのか、そして電力会社ができたのかを知る必要がある。

タイトルからして「東電」を連想してしまうが、「電力」にまつわる「闘い」の記録であることから「闘電」と名付けられている。

第一部「電鬼」
厳ついタイトルであるが、簡単にいえば「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門のことを表している。
その「電力の鬼」との戦いで際だったのは戦後、電力会社の9分社化にあった。その9分社化について吉田茂や白州次郎、新井章二らを巻き込み、政・財・官の三つをも巻き込んだ一大論争にまで発展した。
結果は9分社化したのだが、その分社化のみならず、数多くの「戦争」や「闘争」を行ったことにより軋轢を生んだ。
現在ある「東電」や「関電」などの社名を決めたのは松永本人である。

第二部「銀座電力局」
「昭和の鞍馬天狗」「マッカーサーを怒鳴りつけた男」として有名な白州次郎である。その彼が後に首相となった麻生太郎の父である麻生太賀吉を吉田茂とを合わせた張本人である。
その白州次郎は戦後数多くの改革に奔走したが、その中でも松永とともに電力の国営から引き離し9分社に尽力した。
そのほかにも9分社化した後の電力会社の変遷についてを本章では記されている。
しかしタイトルである「銀座電力局」であるが、元々は松永本人の事務所であり、その中で電力改革の礎を築いた。このことについてあまり文献はほとんど無い。あるとしても昭和25年の「第8回国会の考査特別委員会」にてその記述が残っているくらいである。

第三部「始電」
電力の争いは戦後から始まったことではない。明治時代の頃から始まっていた。日本で初めて電灯が作られたのは明治15年、フランスから輸入した「アーク灯」であった。そこから電灯が日本で作られ、白熱灯が誕生し、東京市(現在の東京23区)で爆発的な広がりを見せたのが明治16年の時である。それと同時に石炭による火力発電所が誕生し、全国各地で電灯会社が作られた。そこから官や侠客らとの争いが起こり、激しい競争や論争を繰り広げた。
発電技術も進化を遂げ、論争の的となっている原子力発電の構想が生まれたのは1955年、読売新聞社を育てた後、衆議院に立候補した正力松太郎が選挙公約に取り上げたことから始まりである。
当時から原子力に対する反対は根強く、「第五福竜丸の事件」もその追い風となった。しかし自ら社主である読売新聞では「原子力安全キャンペーン」を大々的に取り上げた。その原子力の開発メンバーには石川島重工業社長であり、後に経団連会長にまで上り詰めた土光敏夫もいた。

これまでの歴史を見てみると「電力」と「政治」は切っても切れない存在と言える。しかし原発や電力会社に対する信頼が揺らいでしまった今、第二・第三の松永安左エ門や土光敏夫が必要であるとも言える。しかしその土壌ですら育たない日本で誕生するのかどうかという一抹の不安もある。