格差社会という不幸

シリーズ「「宮台真司」の思考を解剖せよ」第4弾は昨今話題となった「格差社会」である。数年前からずっと「格差」という言葉が乱舞していたのだが、それがもっとも叫ばれたのが2007・8年頃、ちょうど小林多喜二の「蟹工船」が超訳版や漫画版として出てきたころである。

本書が出たのはもっとも叫ばれてから1・2年後、「リーマン・ショック」を発端とした急速な景気減速により、「派遣切り」や「貧困」が台頭してきた時代である。
とはいえ「格差」という言葉は消えたわけではない。むしろもっと声高に叫ばれているとも言える。
本書はその「格差社会」によってもたらされた「不幸」について鼎談形式で考察を行うと同時に、そのような社会をいきるためにどうしたらよいのかを示している。

第1章「格差と少子化と結婚できない男と女」
「格差」により希望が持てなくなり、そしてそれが「晩婚化」や「少子化」という歪みを生じている。
ステレオタイプな議論となってしまうが、高度経済成長やバブル景気では「がんばれば報われる」ため、多少無理をしても頑張ることができた。しかしバブルが崩壊されてからは「頑張っても報われない」ような状態が続き、それが長らく「草食系男子」が発生したこと。さらには男女交際が自由になったことにより、いつでもどこでも恋愛ができる安心感が「結婚」や「恋愛」に対する優先度が下がったことも要因として挙げられている。

第2章「格差社会をサバイバルする」
本章では「ハイパー・メリトクラシー」の議論が中心となっている。「メリトクラシー」と一言で「業績主義」といい、「成果主義」とも類似している。
その「業績主義」が偏重することにより「ハイパー・メリトクラシー」となった。業績の良さによって給与になって返ってくる考えであるが、現実はそうではなく、むしろ「人件費カット」という詭弁として使われていることが多い。
その「ハイパー・メリトクラシー」自体、企業だけではなく教育でも同じような事象が起こっている。しかし「能力」といっても学力として優秀ではなく、むしろルックスやそれ以外の「能力」や「特技」に関して秀でていることが中心となった。

第3章「貧困は自己責任なのか」
昨今では「貧困」という言葉であふれている。しかしその貧困も世代間の意識によって「自己責任」として片づけられ、無視されることさえある。
しかしその「貧困」は二〇代だけで言われているのだが、それ以上に三〇代~五〇代にも同様のことが起こっており、生活保護が受けられず餓死してしまうという事例も発生している。さらにはその「貧困」を追いつめる「ビジネス」、いわゆる「貧困ビジネス」も横行している。
その貧困に対しての解決に、大きな障害としてあるのが、前述の「無視」や「無関心」である。それを政治につなげていくために「訴える」こともまた大切であるのだという。

第4章「格差社会はなぜ生まれたのか」
では、「格差社会」はなぜ生まれたのか、という根本的な議論に入る。その背景には当時の小泉政権の中で起こった雇用における「規制緩和」が挙げられている。その根拠の一つとして小泉政権以前の1993年と1997年のタクシー業界における規制緩和を取り上げている。またもう一つとして「日本の社会システム」そのものにも欠陥があるのだという。日本の労働についてもアメリカで成功した事例が多く取り上げられ、採用されてきたのだが、日本では必ず成功したとは言えないものも多かった(有名なのが「成果主義」)。日本とアメリカとで社会システムが異なっており、その背景も異なっている。それを日本人は知らずに取り入れたのも一つの要因と言えよう。

第5章「アメリカという格差社会の幸福論」
「格差社会」が叫ばれている日本であるが、一方でアメリカはどうか。
アメリカでも「格差」は起こっているのだが、その格差の度合いは日本のそれを遥かに超えている。極端な話では1%の富裕層がアメリカ全財産の99%を抱えているほどで、残りはすべて貧困層、あるいはそれに近い所にいるのだという。しかもその格差から這い上がるためには2世代もかかるのだという。

「格差」によって不幸は生まれることは間違いない。その一方で日本は資本主義社会である以上、格差を完全に消すことはできない。ただ、個人単位では格差に対する考え方を変えることができる。そしてそこから政府に対して「セーフティネット」を構築する事を訴えることもできる。あるいは民間単位でもNPOやNGOで活動する事もできる。
「不幸」という言葉を叫ぶことなら誰でもできる。そこからアクションを起こす必要があるのではないのだろうか。