もんじゃの社会史―東京・月島の近・現代の変容

「もんじゃ焼き」と言えば、「月島もんじゃ」というほど月島のもんじゃ焼きはあまりにも有名である。個人的にも「もんじゃ焼き」といえば東京名物という固定観念を持ってしまう。
その「もんじゃ=月島」という構図がいかにしてできあがったのか、そして「月島」と「もんじゃ」は時代とともにどのような変化をたどっていったのか、本書を見てみよう。

第1章「月島のルーツ」
「月島」自体は江戸時代に存在しない。明治20年に東京市(現在の東京23区)によって埋め立て・造成された人工島である。
元々は佃島に隣接された干潟であり、佃島から見える干潟が浮世絵になって現れている。

第2章「もんじゃストリートのルーツ―西仲通り形成史」
月島ができた当初は「もんじゃ」のかけらも無いところであった。むしろ呉服屋や料理店、さらには娯楽業などが軒を連ねる雑多な空間であった。

第3章「もんじゃ経営者のルーツ その1:自営業主と家族」
そのようなところからなぜ「もんじゃ焼き」ができ、名物と化していったのか、本章と次章にて月島にある「もんじゃ屋」の経営者のインタビューをもとに、いかにして「もんじゃ」が、「もんじゃ屋」ができたのかを追っている。
ここでは「もんじゃ」ができる前、飲食店や娯楽業など「自営業」に携わっていた方々をインタビューしている。

第4章「もんじゃ経営者のルーツ その2:工場労働者と家族」
本章では「もんじゃ」が誕生する前に「工場」の労働者だった方々をインタビューしている。

第5章「路地に広がる月島メモリー―子供と女性のもんじゃ文化」
さて、いよいよ「もんじゃ」の誕生の話に移ることとする。「もんじゃ」そのものが出てきたのは、安土桃山時代にまで遡る。茶道の祖である千利休が茶会でお茶うけとして「麩の焼き(ふのやき)」をつくらせ、振る舞ったことが始まりとされている(「お好み焼き」の起源と同様)。それから明治時代に入り、「もんじゃ焼き」と呼ばれる様になったのだという。
一方月島では戦後間もない頃から、駄菓子屋でもんじゃ焼きが振る舞われ、愛されていた。その当時は「子どももんじゃ」と呼ばれた。

第6章「マクロな都市空間の変化と月島―都市空間の機能分化」
月島からほど近いところにあるのが「築地」である。その築地に、日本でもっとも有名な「築地市場」が誕生したのは昭和10年であった(当時は「東京市中央卸売市場」)。
卸売市場が誕生してから月島に食品関連業者が増えていったのだという。

第7章「月島もんじゃの「進化」」
第5章にもあったように、「もんじゃ」は戦後間もないころから「子どももんじゃ」として愛されていた。そこから「大人もんじゃ」と呼ばれる、一般的な「もんじゃ焼き」が月島に生まれたのが1954年の時である。古くからある「もんじゃ」から、様々なテイストを生み出し、そして「もんじゃ」とは縁のない世界から「もんじゃ」の世界に入った業者も出てきた。
いつしか「もんじゃ焼き屋」は増えていき、1997年に「月島もんじゃ振興会」が出てきて、全国的に認知されるべく組織的に動き出した。その活動が「月島=もんじゃ」の構図を生み出した。

第8章「もんじゃ屋経営のスキルとネットワーク」
その「月島もんじゃ振興会」では日本中に「月島もんじゃ」を広げさせる活動をしているわけではない。「もんじゃ焼き」スキルを振興会の中でネットワークにて共有をはかっている。

第9章「もんじゃの味わいと家族」
もんじゃ屋を経営するに当たり、月島独特の「規範」もあるのだという。その「もんじゃ焼き」が広がりを店始めたとき、1979年に「月島大火」と呼ばれる大火事がきっかけだったという。

私自身「もんじゃ焼き」は数回しか食べたことがない。しかしその数回でも「もんじゃ」独特の味は今でも忘れられない。「もんじゃ」のメッカとして知られる「月島」そこでは今日も、東京人が愛してやまない「月島もんじゃ」がつくられている。