同性愛と異性愛

「愛」の形は人それぞれであるが、その「愛」の形によって世間的に受け入れられたり、痛烈な拒否反応を示すようなケースもある。とりわけ後者の風潮を強く表しているのが、「レズビアン」や「ゲイ」といった「同性愛」が挙げられる。

日本では同性婚が民法上禁じられているが、同性愛を主張する人もいれば、それを売りにしている業者も存在するのは事実としてある。

本書は「愛」の形によって嫌悪感を持ったり、差別を被ったりする人、さらにはその社会構造について考察を行っている。

第1章「エイズ・パニック」
病院などの医療機関に行くと、エイズにまつわる啓発ポスターが貼られていることがある。それだけエイズに対する関心が強くなっていると言える。
その「エイズ」患者が日本で初めて現れたのは1985年、そのときから新しい病である「エイズ」が出てきて、国民がパニックに陥り、アジア諸国から出稼ぎに来た外国人が風評により宿泊や車の利用などを拒否されるといった、通称「エイズ・パニック」が起こった。
そのとき「エイズ」が発生する要因として「同性愛」や「アブノーマルな恋愛」といったものが挙げられ、一種の偏見が国民の間で広がるようになった。

第2章「法廷に出された差別」
同性愛に対する偏見は長きにわたって続いた。しかしその「偏見」は「エイズ」発生以前にもある。芸能人でもその偏見を受けた人もあるが、有名な例を2人挙げる。
シャンソン歌手であり、「ヨイトマケの歌」や「メケ・メケ」「愛の讃歌」で有名な美輪明宏も「丸山明宏」と時に「ホモ・セクシャル」を週刊誌で告白し、大バッシングを喰らい、芸能界から干されたことがあった。詳細な年代は不明だが1950~60年代にかけてのことである。
もう一つ挙げると、歌手・女優とで活躍した佐良直美キャッシーとの同性愛関係も大バッシングを喰らった。1980年のことである。
本章で紹介される裁判は1991年に提訴された「「都立府中青年の家」裁判」である。同性愛の立場を主張するために、同性愛に関する市民団体が勉強会を開催するため、青年の家を確保したが、それが理由となり許可されなかったことを不当としたことで争われた裁判である。

第3章「歴史の中の同性愛者たち」
歴史を紐解いてみると、「ゲイ」や「レズビアン」といったものはある。江戸時代でも喜多川歌麿の春画にも「男色」にまつわるものもあれば、文学でも井原西鶴の「好色一代男」では「少年愛」といった同性愛を描いたものもある。
第4章「ホモフォビアと異性愛主義」
「ホモフォビア」は一言に言うと「同性愛嫌悪」である。
とどのつまり「レズビアン」や「ゲイ」などを嫌悪する人や風潮を表している。
ただ、その「ホモフォビア」の傾向は「男らしさ」や「女らしさ」を求める傾向もあることは付け加えておく必要がある。
この「ホモフォビア」として象徴的な事件として2000年2月10日夜に都立夢の島公園でリンチ殺人起こった、俗に言う「ヘイトクライム事件」がある。
「ヘイトクライム事件」の被害者は同性愛者であり、犯人も警察の調べにより「同性愛者を狙って襲った」と供述している。しかしこの事件に関して「同性愛」について取り上げたメディアは少なく、「遊ぶ金ほしさ」「ホームレス」という取り上げ方が多数だった。そのことから本書ではそれを中心に取り上げられた。

第5章「性的マイノリティとは何か」
とはいえ、同性愛について取り上げられたドラマ・映画・アニメは比較的に出てきている。アニメではBL(ボーイズ・ラブ)を取り上げた「世界一初恋」「純情ロマンチカ」など、GL(ガールズ・ラブ)では「少女革命ウテナ」「マリア様がみてる」がある。同人作品などまで広げてみれば枚挙に暇がないほどである。
性的なことを訴えるというよりも「愛のカタチ」のあり方を訴える作品も出てきており、そういったマイノリティも増えてきているといっても過言ではない。

第6章「親密であるということ」
これまでは雑誌や実際の出会い位でしか出会う場がなかったのだが、インターネットが急速に普及したことに伴い、同性愛者のコミュニティができることも容易になった。それが社会的地位を訴える、自らの立場を表現する人も増えている。

性的な部分もそうであるが、「愛のカタチ」は人それぞれである。人間には「偏見」の考え方や感情を持ってしまうのだが、そういった「偏見」のありかたは、そういった価値観を知ることができる現在、「偏見」が薄れるとともに、マイノリティは広がっていくことになる。本書は「愛のカタチ」のあり方を見直すきっかけとなる一冊となる。
最後になるが自分はノーマルであり、同性愛者ではない。単純に愛のカタチはいろいろあるのではないか、と思い本書を手に取っただけである。