シリーズ「中勘助~流麗と幻想の間で」~1日目 中勘助とは?


昨月は「貞観政要」という中国大陸の古典でしたが、今月のシリーズは日本文学を取り上げていきたいと思います。

その中で、先月末に「灘中 奇跡の国語教室 – 橋本武の超スロー・リーディング」という本でシリーズを行うかもしれない、と言ったのですが、それを実現する形となります。

そう、今月はシリーズ「中勘助」と題して、代表作である「銀の匙」を筆頭に様々な作品について取り上げてみよう、と言うものです。

では「中勘助」とはどのような人物なのでしょうか?

まずは有名どころで調べてみると、

「東京現千代田区神田東松下町(旧今尾藩主竹腰家邸内の家)で生まれた。東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)を経て、第一高等学校から東京帝国大学文学部英文科まで続けて夏目漱石の講義を受ける。国文科に転じて大学を卒業した後も、早稲田南町の漱石山房をしばしば訪問している。しかし控えめな人柄から、漱石山脈の中では目立たない存在として通した。文壇政治から常に距離を置き、特定の派閥にとらわれない孤高の文人だった。」wikipediaより一部抜粋)

とある。夏目漱石とは大学生時代は先生と生徒、さらには双方文壇の舞台に立ってからは師弟に近い関係であったことから夏目漱石とはかなり近いところにいたと言えます。言うまでもなく、毎週木曜日に行われた「木曜会」のメンバーでしたが、そのメンバーの中でも控えめな人であったことから、あまり目立たなかったと言われています。

夏目漱石の死後、「木曜会」から改名された「九日会」(漱石の命日が「9日」だったことにちなんでいる)には参加しているかどうかは不明でしたが、それと同時に中勘助を主宰とした読書会も開かれるようになった。1937年の話である。

そのきっかけは後に門下生となる人物たちが、中勘助の作品を取り上げたことが縁となり、そこで中勘助宅に訪れた事が始まりだったと言います。

物静かであり、目立たなかった存在だった中勘助。しかし、なぜ漱石の死後、彼は慕われる人ができ、読書会まで開くようになったのでしょうか。

そこには「銀の匙」をはじめとした作品の魅力があり、それに引きつけられ、行動を起こしたからかもしれません。

では、明日以降は実際に中勘助の作品を見てみましょう。


参考文献

1.wikipedia
2.「中勘助せんせ」

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