シリーズ「中勘助~流麗と幻想の間で」~1日目 「宗教」と「幻想」を描いた小説

今日から3日間にわたって、「中勘助作品」を取り上げていこうと思います。
3日間を大きく分けると、このような形となります。

その1:小説(「銀の匙」を除く)
その2:随筆
その3:銀の匙

今までのシリーズの中では最も短いものとなりますが、大きく分けて中勘助の考えと作風を見るとしたらこのような形となりました。

さて、めくるめく中勘助の世界を作品とともに見てみましょう。

<犬>

中勘助は仏教に精通しておりましたが、「無仏教」という考え方に属していました。その「無仏教」を象徴づける作品として今回取り上げる、「犬」や「提婆達多」が挙げられます。

まず「犬」ですが、この作品は1922年に発表された作品と、中勘助作品の中では初期に当たる作品と言えます。

一見「犬の一生」を描いているイメージを持ってしまうのですが、実はインドのとある宗教が舞台であり、その僧侶が呪法で自分とその周りを「犬」に化けさせ、本来ある欲望に溺れ込む、という設定です。仏教で言うところの「煩悩」と言うべき所でしょうか。

本書の舞台は決して仏教ではありませんが、その幻想に満ち、かつ「煩悩」にまみれた作風は人間としての「業(所行のこと)」を表していると言っても過言ではありません。

<提婆達多(だいばだった)>

提婆達多は、

「釈尊の従弟で、斛飯王(こくぼんのう)の子。阿難の兄弟。出家して釈尊の弟子となり、後に背いて師に危害を加えようとしたが失敗し、死後無間地獄に堕ちたという。デーヴァダッタ。天授。調達。」(「広辞苑 第六版」より)

とあります。本書はその提婆達多の悲劇による形で描いた作品です。「銀の匙」と比べても暗く、それでいて幻想的でありますが、提婆達多や仏陀がいた時代のインドの背景を映し出している作風は「銀の匙」にある流麗なものとは異なり、提婆達多の心情をまざまざと描いている印象が強い作品です。

前後編に分かれており、前編では釈尊の教えのジレンマに苦しみ、後編ではそのジレンマから抜けだそう、もしくは釈尊を越えようとせんと、釈尊に殺しにかかろうとし、失敗。結局仏教とは何なのかと言うのをわからずして地獄に堕ちてしまいました。

仏教とは何かについて、人を越えること、そしてその越えて行くにあたり嫉妬や恨み、辛みを表に出してきた提婆達多が表れる作品です。

<鳥の物語>

この「鳥の物語」を全て見ると、中勘助はつくづく鳥を見るのが好きという印象を持ってしまう。

いわゆる「鳥」にちなんだ物語の作品集であるが、収録されているものが「戦前」「戦中」「戦後」に渡っており、最も古いもので1929年、最も新しいもので1962年、30年以上にわたって鳥にまつわる物語に憧れ、描き続けていったと言えます。

具体的にどのような「鳥」を取り上げたのか、挙げてみると、

「雁(がん)」「鳩」「鶴」「雲雀(ひばり)」「斑鳩(いかる)」「雉子(きじ)」「鶯(うぐいす)」「白鳥」「鷹」「鵜(う)」「鷲(わし)」「鵲(かささぎ)」

があります。しかもそれぞれの鳥の物語で舞台は異なり、ある話では中国大陸(儒教)、ある話ではイスラエル(ユダヤ教)、ある話ではエジプト(キリスト教)、ある話では日本(仏教や神道)といった舞台が出てきます。括弧書きで書いているのですが、いずれもそれぞれの宗教が絡み合って、その絡みから鳥を引き合いに出しているため、「幻想」と呼べる様な世界に入って行く感覚を覚えます。

今回取り上げた小説は中勘助作品の中から代表するものを選んでおりますが、全集となると、どのような世界になるかはわかりません。全集取り上げるのは…後の機会にと言っておきます。

では、明日は随筆作品を見てみましょう。