グローバル化と日本のスポーツ

昨日ワールドカップ最終予選で、日本代表はオーストラリアと戦いはドローに終わった。結果として5大会連続出場が決まったが、PKで同点になったとはいえ、このままの状態ではグループリーグ全敗敗退となってしまう。これからの1年間でどこまで強化できるのかが注目となりそうである。

サッカーもそうであるが、スポーツの国際化が止まらない。バスケットボール、ラグビー、さらに日本の武術の一つである柔道も国際化が進んでいる。最近では野球も「WBC(World Baseball Classic)」が開催されるなど世界規模で開催される競技も少なくない。

スポーツにおける「グローバル化」は止まらないことは周知の事実であるが、果たして「グローバル化」によってスポーツはどのような影響をもたらすのだろうかを、本書にて分析をしつつ日本におけるスポーツの方向性を示している。

第1章「グローバル化の実態とその影響」

今ではスポーツは「ビジネス」の世界になりつつある。私がよく見る「F1」は完全に「ビジネス」に傾倒している。

そのビジネスに傾いている背景には「テレビ放映」が挙げられる。世界中の放送局が視聴率獲得のために、世界中の放送局が放映権をめぐって競争を行う。その放映権獲得のために、多くのスポンサーを獲得する。企業にとってもこれ以上ない販売促進物であるため、多額の広告費を支出する。そういった金銭の流通が伴うことによってビジネスが生まれる。

その「ビジネス化」はより世界中の視聴者に分かりやすくするため「ルール変更」が頻繁に行われ、有力選手が海外に移籍するという現象さえ起こる。

第2章「近代スポーツの進化と発展」

スポーツの近代化は政治・宗教を越えて普遍的、かつ大衆的なものとなってきている。その「自由・平等」はごく最近築かれてきていったのだが、冷戦の時代はアメリカ「人種差別」があり、共産思想があり、個人崇拝があり、必ずしも平等・自由の象徴ではなかった。

日本でも大東亜戦争前後、外国語の統制が行われ、カタカナ語が使えなかった、という歴史がある。

第3章「日本スポーツの多角的分析」

こうした「自由」と「平等」、そして「大衆化」「ビジネス化」が行われるスポーツだが、その状態になるにつれ、ある「歪み」が生まれた。

それは「フェアプレー精神」の欠如にある。

その大きな理由として、「勝ち」「負け」の一つだけで受けとる賞金が異なるため、ただ「勝つ」ためのプレーに成り下がってしまう。そういう理由には「勝つ」ためには手段を選ばず、アンフェアなプレーも厭わず、薬物汚染や八百長といった問題も現に起こっている。

それを避けるべく、様々な審問委員会がもうけられ、アンフェアなことを行えば様々な形で「ペナルティ」を課すなどをして、フェアプレーの促進とアンフェアなプレーの抑制を図っている。

スポーツは見る側、行う側双方楽しむものもある。たとえそれが「勝つ」ことがすべてといわれている「プロ」の世界でも然りである。スポーツはグローバル化の一途を辿っているが、果たして「スポーツ」とは、そして「プロスポーツ」とはどのような存在であるべきか、その道程を考えるきっかけとなる一冊である。