熟議が壊れるとき~民主政と憲法解釈の統治理論

日本は民主国家であるが、民主国家であるが故に議員のじっくりとした議論を行う「熟議」と選挙はつきものであるのだが、その「熟議」がしばしば成り立たなくなってしまうことがある。

本書は熟議におけるトラブルが起こるなどのリスクの全容と熟議を越えた民主政治と法律の解釈について迫っている。

第1章「熟議のトラブル?―集団が極端化する理由」
民主主義には、ほとんどの場合議会・議員を通じて熟議と呼ばれる議論を行い、熟議のうえで法律や政策を決め、実行に移すようなシステムが成り立っている。本書の元はアメリカの議会や裁判所、法律であるのだが、日本でも通底する物があるため、邦訳されたのだろう。
議論をする際には当然言葉のやりとり、いわゆる「コミュニケーション」で行われるのだが、その「コミュニケーション」は、時として言葉の論理を無視したのになってしまう。それは話す人の地位や考え方の違い、さらに党や派閥といった集団による意見が偏るといった「リスキーシフト」と呼ばれる事象が起こる。

第2章「共和主義の復活を超えて」
アメリカでは「共和主義」をとっており、本章はアメリカの政治主義のメカニズムと「共和主義」そのものの違い、さらに、共和主義の魅力とリスクについて論じられている。
共和主義とは、

「「共和制」の基礎であり、民主主義に基づき君主の廃位を要求する君主制廃止論を意味する」Wikipediaより一部改変)

とある。

第3章「司法ミニマリズムを越えて」
アメリカにおける裁判は「陪審制」をとっており、完全一致が原則とされている(ただし、州によっては多数決で決められる所もある。)。日本は陪審制も参審制ともことなる「裁判員制度」が適用されている。
司法において、国民が裁判に参加する、もしくは判決する過程のなかで「ミニマリズム」と呼ばれるものにはまりやすいという。ミニマリズムは元々音楽や美術などの芸術における用語であり、調べてみると、

「形態や色彩を最小限度まで突き詰めようとした一連の態度を最小限主義」Wikipediaより)

とある。裁判、もとい司法における合理的に判断する、解釈を「最小限」に抑えると言う意味合いで「ミニマリズム」が使われている。

第4章「第二階の卓越主義」
本章のタイトルである「第二階の卓越主義」とは、

「建国文書の解釈を請け負う人々に課された制度上の制約に対して注意を怠らない一種の卓越主義」(p.182より)

とある。建国文書は日本で言うところの「日本国憲法」、また「卓越主義」とは、

「ある分野で優位であることが望ましいことが『善』であるという考えから、優位にある分野を身につけたり、磨いたりするような倫理観」「卓越主義の要約」より一部改変)

という意味である。
つまりは、憲法における考え方、あるいは解釈をするうえで、優位に立っている人(例えば法律家や国会議員など)の制約を厳格化する、というような考え方である。
これに対し「第一階」も解説する必要がある。「第一階」とは、簡単に言えば第三章に書いたような「ミニマリズム」と同じようなものである。

第5章「第二階の決定」
ではなぜ「第二階」と呼ばれる段階で決定する必要があるのか。「餅は餅屋」という言葉が存在するからなのかもしれない。現場で起こっていることを国民や公的機関が決定しようとせず、現場から遠く離れている国会や官僚など「第二階」と呼ばれる人たちが専門的であり、倫理的であり、かつ政治的に優位に立っているから、という考えに行き着く。

民主主義における「熟議」はコミュニケーションにおける齟齬やコミュニケーションでは諮ることのできない力関係が潜んでいるのかもしれない。難解な本であるのだが、本書はそれに対して警鐘をならしているのかもしれない。