科学を語るとはどういうことか —科学者、哲学者にモノ申す

科学はいったい何なのか、哲学とはいったい何なものか、本書は物理学者の須藤靖氏と科学・哲学両方を専攻している「科学哲学者」の伊勢田哲治氏の対談集である。

前書きには伊勢田氏の提唱する「科学哲学」と「物理」そのものは相容れられず、そもそも「科学哲学」、ましてや「科学」や「哲学」でさえも「眉唾もの」であると指摘しつつも、井の中の蛙にある自分の鑑みながら、他流試合として科学哲学者と対談を行おうとしたのである。

第1章「科学者が抱く科学哲学者への不信」
そもそも伊勢田氏の専攻は「文学」である。文学研究の中で「科学哲学」を見出し、「科学哲学者」を標榜してきたのかもしれない。伊勢田氏が紡ぐ本の文章をみると、ソーカル&ブリクモンが著した「『知』の欺瞞」に見立てて、欺瞞であると断じた。
しかし伊勢田氏によれば科学そのものの世界が「『知』の欺瞞」のような世界を醸しているのだという。

第2章「ツッコミながら教わる科学哲学」
さて、「科学哲学」とはいったいどのような学問なのだろうか。物理学を専攻している須藤氏としては全くの「未知の領域」と言える。それと同時に得体の知れない学問のため、物理学の観点から「ツッコミ」を入れながら、「科学哲学」そのものの歴史を振り返りつつ、どのような学問なのかを論じている。

第3章「哲学者の興味の持ち方」
物理学者に限らず、科学など「実態のある学問」に携わる人々にとっては、内面的な「見えないところ」について研究している哲学は、未知のものであり、場合によって批判の対象にもなることもある。
では、哲学者にたいして、物理学者を含め科学者はどのように興味を持てば良いのか、本章では相容れられない「考え方」の相違を中心に説明している。

第4章「科学者の理解しにくい科学哲学的テーマ 1―因果論とビリヤード」
本章と次章で科学者が科学哲学に対して理解しにくい点を紹介している。一つ目は「因果論とビリヤード」についてである。
一見読者からも理解しがたいようなタイトルであるが、科学的な考察でよく使われる「因果関係」であるが、元々は仏教用語から来る言葉であり「原因の中にすでに結果が含まれている」という意味を持つ。
これに対して「ビリヤード」は球技としての「ビリヤード」ではなく、ビリヤードを行う際に行う「衝突」が原因・結果とで結びついていると論じた人がおり、哲学者が定義する因果関係を割り出すものとしてよく用いられるのだという。

第5章「科学者の理解しにくい科学哲学的テーマ 2―実在論と反実在論をめぐる応酬」
次は「哲学」と「科学」の違いがはっきりと出てくる。
「科学」は元素など液体・気体・固体かかわらず、形のあるもの、いわゆる「実在」するものから考察を行うが、「哲学」は人間における内面、もしくは自然における内面を考察する「非実在」のことについて考察を行っている。
そもそも考察を行う対象が異なるため応酬をしようにも、対立点が全く見えないようなイメージを持つのだが、「ものはどこまで実在するのか」という疑問については、議論をする価値があったのだと著者両人は考え議論をすることとなった。

第6章「答えの出ない問いを考え続けることについて」
そもそも今回の議論には「答え」は存在しない。あくまで物理学者が科学哲学に対して持っている「疑念」と「不満」を紐解いていくことが目的である。
2人の対談で見えてきたものとして「科学」と「哲学」の相違点について、一つは「根拠」であり、「科学」は実験結果などの根拠を示すのだが、哲学は「根拠」の概念が存在しないこと、「科学」は結果をもとにして未来に向けてのシミュレーションができるのに対し、「哲学」はそれが無いと言うことなどが挙げられる。

第7章「科学哲学の目的は何か、これから何を目指すのか」
「科学哲学」という学問は、「科学」にあたるのか、「哲学」にあたるのか定かではない。ただ少なくとも言えるのが、科学のように実証を求めていない所であり、どちらかというと「哲学」の範疇に入るのかもしれない。
しかし、科学哲学は何を求めているのだろうか、そして科学哲学が行き着く終着点はどこにあるのだろうか、本章ではそのことについて論じている。

本書の表紙から見るに怪しい(失礼!)と思っていたが、「科学哲学」そのものの世界は本書の表紙以上に怪しいものであることがわかった。しかしその「怪しさ」は科学側から相容れなくても、一種の哲学として受け入れられてきているが、一つだけ言えることとして「科学でもなく哲学でもない」学問として科学哲学があるのでは、とさえ考えてしまう。