天下無敵のメディア人間~喧嘩ジャーナリスト・野依秀市

「言論界の暴れん坊」「反骨のジャーナリスト」

と様々な異名を戦前・戦後にまたいで活躍したあるジャーナリストがいた。
その男の名は「野依秀市」。ジャーナリストとして日本のタブーを映し続けただけではなく、「三田商業界」「実業之世界」「やまと新聞社」など多くのメディア機関を創立した実業家としての顔も持つ。その一方で徹底した「反体制」を敷き、何度も収監され、戦後には、多くの書籍・メディアがGHQの検閲に引っかかり、発禁処分を受けた。発禁を受けた数は、誰よりも多かったのだという。
本書は「反骨のジャーナリスト」「喧嘩ジャーナリスト」と呼ばれた野依秀市の生涯について「評伝」という形でつづっている。

第一章「野依式ジャーナリズムの原点」
野依ジャーナリズムの原点に挙げられるのが1907年に創刊した「大日本実業評論(後の、実業之世界)」という新聞を創刊したときから始まる。この「大日本実業評論」では日本の基礎を築き上げた実業家である渋沢栄一らの庇護を受けて一大ジャーナリズムを築かせた。
創刊当時から「権力批判」を様々な形で揶揄をすることから「ブラック・ジャーナリズム」と評する人も多かった。

第二章「「広告取り東洋一」の実業雑誌」
しかし新聞・雑誌などメディアを存続させるためには、売り上げの他にも「広告料」が必要になる。無料のメディアが儲けられる要因もおおかたは「広告料」であるように、広告を得ることが既存メディアにとって死活問題といえる。
野依の広告取りの仕方とは何か、野依は元々慶応義塾の出身だったため、財界人とのつながりもあった。その伝を使って財界からの広告を集めた。
それと同時に自分が発行している新聞・雑誌を朝日新聞などのメディア、さらには電車の中吊りなど大々的に広告を集め、売り上げと広告料を伸ばし続けた。

第三章「喧嘩ジャーナリズムの筆誅録」
野依のジャーナリズムは権力に対する「喧嘩」そのものだった。
喧嘩の相手は大隈重信や新渡戸稲造など様々であった。「権力」に対する喧嘩で暖め、右翼や左翼は関係なく、反論も右左関係なく受けた。
その喧嘩を続けていくうちに1912年に恐喝事件となり、入獄することになってしまった。その入獄も野依はネタにして、あたかも「勇者の入獄」のごとく仕立て上げた。恐喝事件を起こした対象は、当時の「東電(東京電燈)」だった。

第四章「「大正巌窟王」の闘い」
野依が出獄したのは2年後のことである。出獄後最初に取り上げた記事は「監獄は人生の大学である(p.125より)」という記事だった。
時代は対象に移り、大正デモクラシーが起こり、文化としても「大正ロマン」が起こるなど国家・文化両方の面で変化が起こった時代である。その時に「男が読む女性雑誌」として「探偵雑誌」を創刊し、刑事的な事件についての処世を取材と自らの体験を描いていたという。

第五章「『世の中』と『女の世界』の新機軸」
大正時代に創刊した雑誌は他にもある。「世の中」と「女の世界」である。前者は権力批判や社会とは違い「生き方」や「暮らし」を求めた雑誌である。後者は女性としての生活や考え方を中心にしている。もっとも後者の雑誌は、前々から出ていた「婦人世界(実業之日本社)」に対抗して創刊されたのだという。

第六章「仏教プロパガンディストの信仰縦横録」
新聞・雑誌の創刊を立て続けに行っていったのだが、分野も生活・女性の他に、本章では「宗教」にまで裾の野を広げていった。その要因には保釈中に不謹慎な行為を行ったことにより、2回目の入獄したとき、浄土真宗に帰依したことにある。

第七章「護憲派ジャーナリストの有田ドラッグ征伐」
喧嘩ジャーナリストと呼ばれる一方で、護憲派や原敬などの平民宰相と呼ばれる人物を徹底的に養護したという。そのことから「護憲派ジャーナリスト」と呼ばれることもあった。権力批判も同時に行っており、1924年当時、財界でも「広告魔王」と呼ばれた、有田ドラッグの有田音松を徹底的に糾弾し、「紙面戦争」にまで発展した。

第八章「「代議士」野依秀市の誕生」
やがて時代は昭和になった。昭和に入ってから「普通選挙」が導入され、野依は激戦の東京第一区から立候補しようとした。しかし、度重なる罪により、被選挙権が剥奪されている身では立候補することすらできなかった。さらに選挙自体も平等にできるかと野依は思っていたが、そうではなかった。理想的に行われたのは首都圏の一部であり、他の所ではお金で一票を買うような投票買収が横行していたのだという。そのことから選挙に対する糾弾を行うようになった。

第九章「「貧強新聞」奮戦記」
被選挙権を取り戻すことができた後の1932年に衆議院総選挙で晴れて国会議員となった野依は、ジャーナリズム魂は捨てていなかった。むしろ「新聞を糾弾するための「新聞」」を創刊した。それが「帝都日日新聞」である。糾弾を行い始めた矢先、1934年に「帝人事件」が起こり、それに関連して財界人を恐喝した罪で逮捕された。

第十章「筆は剣よりも強し」
時代は満州事変が起こり、さらには支那事変(日中戦争)が起こり、治安維持法による言論統制が行われるようになった。それでも糾弾は止まるところを知らず、「英国打倒」や「軍部批判」を繰り返していった。

第十一章「総力戦体制下の「反体制」原論」
やがて第二次世界大戦、大東亜戦争にまで発展していった。当然野依のジャーナリズムも開戦論を展開した一方「反体制」を標榜した結果、検閲により発禁になった件数はどこの新聞・雑誌よりも野依が手がけた新聞・雑誌の方が群を抜いていたと言われている。しかし発禁処分を受けた後の新聞の方がさらに売れる、と言われる事態も起こしており、反体制でいながら、メディアとしての「居場所」も築いていった。

第十二章「敗戦者の勝利」
「反体制」の矛先は例外なく、東条内閣にまで及んだ。その批判が検閲に検閲を重ね、野依が築き上げてきた新聞・雑誌も続々と廃刊に追い込まれたが、それでも氷山の一角だった。なおも野依は体制批判を続けていき、終戦を迎えることとなった。その後もメディア活動を広げていったが、今度はGHQによる検閲が行われ、続々と発禁処分を受けていった。

第十三章「広告媒体か、モラル装置か」
広告媒体として、反体制の措置として活動を続けていった野依ジャーナリズムは、吉田茂による保守分裂を糾弾し、さらに1951年の自由民主党結成による保守合同の立役者となった。思想も反共になっていった。そして野依は1968年、82年に及ぶ反骨の生涯に幕を下ろした。その時は「六十年安保」や「大学紛争」の盛んな時代だった。

インターネットの普及により、ジャーナリズムも変化を起こしている。「一億総評論家」と言われたり、「一億総ジャーナリスト」と言われたりする時代の中で、メディアはどうあるべきなのか、喧嘩なのか、それとも協調なのか、それはこの書評を書いている自分にもわからない。わからないからでこそ、メディアそのものが生まれた原点として「喧嘩ジャーナリスト」を知ることが必要なのかもしれない。事細かに綴られており、ボリュームも多いのだが「メディアの原点」を回帰することができる一冊と言える。