共生社会とナショナルヒストリー~歴史教科書の視点から

本書のサブタイトルには「歴史教科書」がある。これは現在火種となっている日・中・韓のなかで「歴史認識問題」挙げられる。この「歴史認識問題」は歴史の教科書にどのようにして書けば良いのか、という「教科書問題」にも通じている。国語もそうであるが、歴史は日本人の辿った道、文化、事件を知り、日本人としての素養を育む上で最も重要な学習科目の一つである。

本書は歴史認識問題、及び歴史教科書問題の経緯と本質を知るとともに、日本人における共生社会とは一体何なのかを提言している。

第一章「2008-09年の学習指導要領改訂がもたらしたもの」
歴史教科書が大きく改訂された時として2008~09年の改訂について取り上げている。改訂された教科書が使われるのは2010年度に入ってからの事であるが、教科書検定のなかで様々な識者が論争を起こすなど言論の世界でも盛り上がりを見せていた。
なかでも取り上げられたものとして「沖縄戦」が中心だった。

第二章「歴史教科書問題の論点の推移」
歴史教科書問題は第二次世界大戦後からずっと続いていた。最も古いものとして1962年の「家永教科書裁判」が挙げられる。この裁判は「教科書検定そのものが憲法違反か」と言うのが争点としてあげられていた。裁判のなかの各論として「台湾出兵」や「沖縄戦」などの「戦争の表現」について不合格となった部分を取り消すよう求められていた。ちなみに「家永」というのは歴史家の家永三郎氏のことである。
その後、日本と中国で対立した教科書問題が1982年と1986年の2回起こっている。2つの教科書問題は現在も続いており、新しい教科書が出る度に韓国・中国が日本に対して抗議をするようなことをしている。逆に日本が韓国・中国の教科書に対して抗議を行った事は一切無い。

第三章「リスクとしての歴史教科書問題」
「沖縄戦」について2007年に最も論争の火種となったのが大江健三郎の「沖縄ノート」である。これは沖縄戦における「集団自決が『強制であった』」という記述が名誉毀損に当たるかどうかが争われた裁判である(結果は原告の敗訴が確定)。
本書は別に沖縄戦を中心にしているわけでは無く、「沖縄戦」の記載を歴史教科書はどのようにしてきたのか、その推移を取り上げつつ、歴史教科書問題によって国益、あるいは教育がどのようなリスクを負うのかについて考察を行っている。

第四章「共生社会におけるナショナルヒストリーの位置」
歴史教育に限らず、学校教育のなかには「共に生きる力(共生)」がよく使われる。その「共生」という思想は「人間と自然」という意味合いもあるのだが、本章ではあくまで「日本人と外国人」との共生について、「学習指導要領」の変化とともに考察を行っている。

第五章「歴史の社会的な成り立ちを理解するための資源」
歴史はどこまで書けば良いのか、それは歴史教科書問題のなかでも長く問われてきたものである。現在でも論争は続いており、もしかしたら完全に解決するのは難しい、とも言える。ただ、国民に何を教えるべきか、それを問い続けながら、日本人としての教育は何なのかを邁進していく他ない。

歴史認識は国の違いによって異なるのはもはや変えようがない。しかし諸外国の考えを低姿勢で尊重し、日本人としての教育がなされなくなるようでは国そのものが終わりとなってしまう。本書は歴史教科書問題を「歴史教科書」や「学習指導要領」などを中心にして考察を行った一冊だが、日本人としての歴史・教育とは何かを考える契機となる一冊である。