科学と人間の不協和音

「科学」という名の学問・技術の発展は私たちの生活にとってプラスになる要素になっていたのだが、東日本大震災が起こり、科学と人間生活との間に「不協和音」ができ、科学の発展が人間生活の「リスク」を産む事象も起きてきている。

しかし、前々から科学の進歩は人間生活にとってメリットになったものも少なくないが、なぜ「メリット」と「リスク」両方が生まれたのか、そして科学者とそうでない人の溝はいかにしてできたのか、本書ではそのことについて考察を行っている。

第一章「“科学者”と“素人”のあいだの深い溝」
「常識」と言う言葉は私たちの生活にあたりまえのようにあるのだが、人によってはそれが当たり前でない。むしろ「非常識」呼ばわりされることさえある。
人それぞれ生き方、置かれている環境が異なるのだから、そもそも「常識」と言う言葉で人を縛ることはおかしい。
例えば、本章でも取り上げている「猫にレンジを入れてはいけません(p.47より)」というものは、ある人は「常識」だと思っても、それが常識だとは思わない人もいる。そもそも「素人」の中にも、「科学者」の中にも「相違」や「溝」があるわけだが、その溝の程度が看過できない、そして東日本大震災の用に見解の違いがあるのではないかと考える。

第二章「役に立たない科学の居場所」
「科学」は私たちの生活にとって役立つ意識が強いと言われているのだが、科学によっては、「トンデモ」扱いされるほど「役に立たない」ものも存在する。「科学技術」を研究し、成果を生み出すことは大学や研究期間に限らず、メーカーなどの企業でも行われているのだが、企業の場合は新商品開発の参考にしたり、「特許」を取得したりするための手段として存在する。

第三章「欲望と科学の共犯関係」
「遺伝子組み替え食品」や「私たちの生活に必要としない発明」と言ったものがある。科学の立場では立派な発展のきっかけとして、ポジティブに捉えられるのだが、科学者以外の立場、本書では「素人」から見たら、「どうでもいいもの」「私たちの生活を脅かす存在」という風に、ネガティブな感情で扱われてしまう。

第四章「科学という神話、科学という宗教」
「科学」と「宗教」の2者は一見つながらないように見えるのだが、実際に「科学信仰」と呼ばれる言葉があるように、あたかも「宗教」のように伝えられている用なことさえある。
もっと言うと、科学技術の発展が、宗教に触れてしまい、黙殺された例もかつてはあった。有名なものは「ガリレイの地動説」が挙げられる。
そう考えると、本章でも取り上げられるように「科学」と「宗教」は「紙一重」と呼ばれても仕方がないといえる。

第五章「科学を支えるもの、科学を縛るもの」
東日本大震災に伴う「福島第一原発事故」も含めて、科学にまつわる事件も後とを絶たない。そう考えると「科学」は何のためにあるのだろうか、という疑問を生じてしまう。これについては、科学者の中でも答えは分かれるし、そうではなくても「学問」のため、とか「生活」のため、と言うように答えはそれぞれの立場で異なる。
また、科学はいくら発展できたとしても万能ではない、どこかで「限界」があり、それを知ることが科学者の責任としてある。

「井の中の蛙大海を知らず」という諺が存在する。これは「考えや知識が狭くて、もっと広い世界があることを知らない。世間知らずのこと、見識の狭いこと(「広辞苑 第六版」より)」と言うような意味であるように、自分の考えだけで、狭い世界に捉えられてしまう。それは素人の立場でも、科学者の立場でも同じである。本書はその言葉が当てはまるような気がした。